12月18日,八王子市恩方町の桑畑から,萩原朔太郎の詩を髣髴とさせる奇妙な死体が発見されました。(内田康夫『「萩原朔太郎」の亡霊』)
その萩原朔太郎の詩というのは『月に吠える』所収の「死」です。
みつめる土地《つち》の底から、
奇妙きてれつの手がでる、
足がでる、
くびがでしやばる、
諸君、
こいつはいつたい、
なんといふ鵞鳥だい。
みつめる土地《つち》の底から、
馬鹿づらをして、
手がでる、
足がでる、
くびがでしやばる。
σ(^^;)的には意味不明な詩です。
ところで,恩方町といえば“東京のチベット”八王子の中でもかなり奥のほうですが,作詞者・中村雨紅のふるさと,そして「♪夕焼小焼で日が暮れて 山のお寺の鐘がなる……」の童謡「夕焼小焼」の舞台として有名です。現在ではそのあたりに「夕やけ小やけふれあいの里」があります。京王八王子駅からボンネットバス「夕やけ小やけ号」が走り,最寄りのバス停は「夕焼小焼」,約50分のバスの旅だったのですが,この「夕やけ小やけ号」は今年の春で運行を終了しました。八王子市の同報無線では夕方,もちろん「夕焼小焼」のチャイムが流れます。
ついでですが,お寺の鐘が鳴ると聞いて,
かねがゴンと鳴りゃ からすがカア
という歌を思い出す人ってσ(^^;)以外にいますか?(爆) 「いくさにやかれて おてらはボゥ……」と続きます。「それでも坊さん 平気な顔して南無三だぁ……」
1963年1月23日16時05分,急行「越路」が新潟駅を発車していきました。このときはまさか上野駅まで112時間もかかる道中になるとは誰も思ってはいなかったでしょう。
当時の新聞からこの列車の足取りを拾いながら,三八豪雪の一端を見てみることにしましょう。はっきりした資料に基づいているわけではないので,不明な点が多いです。
●1月23日16時05分 新潟駅を出発
大雪警報をついての発車でした。定刻に出たかどうかはわかりませんが,多少遅れたとしてもこれからの遅れに比べれば大した問題ではないでしょう。
新潟県下越地方は19時半ごろから最大瞬間風速30m/sの暴風雪となりました。この影響で新潟-長岡間の信越線などが22時過ぎまでストップ,その後ようすを見ながらゆっくり運転を再開しましたが,「越路」は23時ごろ保内駅構内で雪の吹きだまりに突っ込んで身動きが取れなくなり,そのまま保内駅で滞留することになります。
一方,前日から18年ぶりという大雪に見舞われていた北陸本線は,夜から全面運休となりました。
●1月24日 押切駅で立ち往生
どうやって押切駅まで動いたのか不明です。
暖房が切れたために列車内に火鉢が差し入れられましたが,乗客約400人のうち311人が一酸化炭素による中毒症状を起こしました。うち重症だった3人がラッセル車で長岡まで運ばれて入院しました。のちに乗客のひとりは「(国鉄は火鉢を差し入れてくれたが)おかげで中毒が起こった。ほんとは暖房に必要な水を補給すべきだった。その機会もあったのに」と語っています。
12時30分ごろ,福井県勝山市の横倉地区で大規模な表層なだれ(俗に“アワ”とよばれます)が発生,住宅4棟と公民館,神社などをのみ込み,16人が犠牲になりました。
このころから富山・石川・福井の北陸3県では,外部との交通が途絶して孤立状態となり,物資が不足する市町村が出はじめました。
一方,最低湿度6%とカラカラに乾いた東京の深川で早朝,ガス漏れによる爆発・火災が起こり,一家6人が焼死(爆死?),17棟が全焼しました。
また,鹿児島では前夜からの積雪が17cmに達しました。
●1月25日~27日 長岡駅から動けず
どうやって押切駅から長岡駅まで動いたのか不明です。
開通のめどが立たないため,25日の夜から乗客は近所の旅館に泊まることになりましたが,その扱いたるや「囚人の収容所なみの扱い」(ある乗客)。
27日の朝,“除雪協力隊”を乗せた“救援列車”が上野から東北本線・磐越西線経由で長岡駅に到着しました。レールにこびりついた雪はラッセル車を脱線させるほどかたまっていて,ツルハシでたたき割るしか方法がなかったということです。
一方,26日14時30分ごろ,福井県美山村芦見地区で下校中の児童8人と引率の教師1人が“アワ”に巻き込まれて生き埋めになり,児童3人と教師が死亡するという事故が起こりました。この前後にアワ=表層なだれが各地で頻発しています。
●1月28日01時45分 長岡駅を発車
自衛隊,除雪協力隊など約1000人を動員して,27日夜にようやく開通のめどが立ちました。
当初は27日22時過ぎに発車の予定でしたが,除雪作業が長引いたため,28日01時45分,ラッセル車2台を先導させての強行発車に踏み切りました。
●1月28日08時29分 上野駅に到着
106時間21分遅れで,やっと上野駅に到着しました。もちろん国鉄史上第1位の遅れの記録です。屋根には雪が1m以上積もり,連結器や車輪のまわりには氷が貼りつき,悪戦苦闘ぶりを物語っていました。雪に閉じこめられていたときの乗客は約350人でしたが,到着したときにはなぜか650人になっていました。
小出駅に足止めされていた下り急行「佐渡」も,08時03分に88時間48分遅れで新潟駅に到着しました。
このようにしてある意味で三八豪雪の象徴となった「越路」と「佐渡」は多くの人の協力によって終着駅にたどり着きましたが,もちろん三八豪雪はこれで終わったわけではありません。
今日は,千葉県栄町にある竜角寺とドラムの里に行ってきました。
どちらも本来の目的の地だったわけではありません。とある推理小説(今回は内田康夫センセの作品ではないです)の舞台を訪ねるつもりで(昨日笹川に行った本来の目的もそれで,天保水滸伝関連を訪ねたのはついでです。だから繁蔵最期の地を訪ねていないし,記念館にもはいっていないわけだし),今日は本当なら双正寺という寺を訪ねたかったんですが,事前調査でどうしても見つからない。だからその代わりとして竜角寺を訪ねたというわけです。あまりにも代わりすぎますが(^^;)
どうもこの小説の安食付近の記述は実際とはかなり違っていて,駅前にタクシーの営業所なんてないし,もっともこれは小説が書かれたころにはあったのかも知れないとしても,安食駅から行くと将監川の澱みが目にはいるより先に長門川が目にはいる――というより渡らなければならないので,記述と一致しません。まあ,σ(^^;)もそんなに丹念に調査したわけではなく,間違っている可能性もあるので,このくらいにしておきます。
さて,前置きが長くなりました。というより前置きが実はメインだったりするんですが(笑) 竜角寺は709年創建といいますからかなり古い寺です。でも,ほとんど跡しか残っていません。名前のとおり,竜にまつわる伝説があります。
ドラムの里のドラムというのは栄町のイメージキャラクターのドラム君のことで,由来は「ドラゴン(竜)+夢」,竜角寺の竜伝説に基づいたキャラクターです。
ドラムの里からちょっと歩くと,竜角寺古墳群があります。かなり数が多く,栄町教育委員会のページによると大小115基の古墳が確認されているようです。ほとんどが円墳と前方後円墳です。この古墳群を残した豪族についてはいまだ解明されず,謎に包まれているようです。