お天気,暦,競馬などに関するメモです。以前発行していたメルマガ「能天気Express」のブログ版みたいなものです。

2006/081234567891011121314151617181920212223242526272829302006/10

お知らせ
2008年6月2日以前の記事は他のブログからインポートしたため,画像へのリンクが切れています。画像の元データはどこかにあるはずですが,どれがどの画像だったのかわからなくなっているし,新たにサイズなどを変換するのが面倒なため,問い合わせをいただいても画像を復活させることはしません。まあ,大して貴重な画像があるわけではないですから(笑)
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

●藤原効果とは

今年の8月に現われた台風10号と11号の間にも見られましたが,2個の台風が存在する場合に, 中間のある点(重心)のまわりを反時計まわりに回転する相対運動を藤原効果といいます。 経験的には台風間の距離が800km以内になるとはたらくといわれています。台風間ばかりではなく, 例えば台風と上層寒冷低気圧(UCL)との間でも同じような現象が起こります。

藤原効果の“藤原”というのは,かつて中央気象台の台長(今の気象庁長官にあたるらしい) を勤めた藤原咲平博士のことです。ちょっと古い本には“お天気博士として有名な”とか書いてあったりしますけれど, 確かに昔は有名人だったようですが,今となっては過去の人にすぎません。

島田守家『暴風・台風びっくり小事典』によると,藤原効果あるいは藤原の効果あるいはFujihwara effectということばをはじめて使ったのは,敗戦直後に日本に来ていた米軍の気象技術者ではないか,ということです。

また,同書によると,このことばが日本に広まったのは, 1964年の台風14号と16号がきっかけだったようです。

●1902年9月27日~29日の台風

記録上,藤原効果のもっとも古いと思われる例です。

「気象要覧」から引用します。なお, 諸般の事情により原文中の旧漢字の一部が今の漢字になっている場合があります。

二十一日馬尼刺氣象臺ヨリ呂宋ノ東方ニ低氣壓發生スル旨通報シ來リシカ…… 然ルニ二十四日ニ至リ琉球以南ニ於テハ風向北東乃至東トナリ風力稍加ハリ一般ニ雨天トナリテ呂宋低氣壓ノ漸次接近スヘキ前兆ヲ示セリ仍テ二十五日午前七時五十分九州南部以西ニ警報ヲ發セリ

このように,はじめは呂宋(=ルソン島)方面から北上してくる台風が警戒されていました。ちなみに, 当時はまだ颱風=台風ということばは登場していません。

ところが,本州東部で著しい気圧の減少が観測され,

葢シ夲州東部ニ斯ノ如キ變化ヲ及ホセシハ呂宋ヨリ北上シタル低氣壓ノ所爲ニ非スシテ當時房總ノ遙カ南方ナル海上ニ現ハレタル別個深厚ナル低氣壓ノ影響ナルニ似タリ

呂宋方面から北上してくる台風は動きが遅かったのに対し,

房總ノ南海ヨリ襲來セシモノハ其深度ノ大ナリシト且其進行甚タ迅速ナリシ

というように,やはり東側の台風は“鉄砲玉”でした。 これは呂宋方面から北上してくる台風との間にはたらく藤原効果によるものと思われます。

この台風は28日08時ごろ安房南端布良付近を通過,このときの最低気圧は「七百十七粍一」 (≒956.1hPa)で,中心が通過する前は「晴雨計」(≒気圧計)が1 時間に「十二粍七」(≒17hPa)低下,通過後は1時間に 「十六粍」(≒21hPa)上昇しました。台風はその後横須賀の西を通過し,進路を北北東に変え,東京北部,足尾付近を経て, 11時30分に新潟から日本海に抜けました。この間,東京は08時55分から約10分間,眼の中にはいったようです。

中心が本州を通過したときの速さは「毎時約二十五里」で,“1里≒4km”だとすると, 100km/hというとんでもない速さだったことになります。

銚子では09時30分までの10分間の平均風速として「毎秒六十四米」を観測していますが, これは64m/sではなく,44.9m/sのようです。現在でも歴代2位の風速です。また, 筑波山頂の09時20分までの20分間の平均風速は「毎秒百三米」でしたが,同じ比で換算すると72m/sとなります。

この台風による茨城県の住家の全壊・流出は20164で,他の災害と比べて1ケタ以上違います。また, 小田原や国府津の沿岸では高潮(新聞には“海嘯”とあります)による大きな被害がありました。さらに,新聞によると, 各地で強風によるとみられる列車の転覆が起こっています。

●足尾台風と足尾銅山鉱毒事件

中心がすぐ近くを通過した足尾では315mmの雨が降り,周辺に土砂崩れなどを引き起こしました。 そのためこの台風は足尾台風ともよばれます。

当時鉱毒を渡良瀬川にタレ流し続けていた足尾銅山も大きな被害を受けましたが, この台風が足尾銅山鉱毒事件の展開に与えた影響については, σ(^^;)の調査不足もあってよくわかりません。ちなみに,有名な田中正造前代議士による明治天皇への直訴事件は, 前年1901年12月10日のことです。

ただ,政府による鉱毒問題の治水問題へのすり替えはすでにはじまっており,その手段として, 決壊した堤防を放置して住民を追い出しそこを遊水池化する計画も実行に移されていました。 最初に計画された利島村と川辺村の遊水池化は失敗しましたが,のちに谷中村が徹底的な破壊のあと, 足尾銅山がタレ流した鉱毒とともに渡良瀬川の川底に沈むことになります。

スポンサーサイト

“オリンピックの花”マラソンは第1回アテネ五輪のときにはじめて行なわれた競技です。 この競技が次の伝説に基づいてつくられたことは有名な話です。

B.C.490年9月12日,「マラトンの戦い」のとき, フィリッピデスという伝令がアテネの勝利を伝えるためにマラトンからアテネまで約40kmを走り続け,「われ勝てり」といって息絶えた。


つまり約2500年前の今日のことでした。

ところが,最近になって「マラトンの戦い」は9月12日ではなく8月12日だった―― という説が出てきました。これが事実とすれば,夏の暑い中をひたすら走り続けたわけで, フィリッピデスの死因はおそらく熱中症だったのでしょう。

このフィリッピデスの絶命話は,あくまで伝説であって史実ではないと今では考えられているようです。 ヘロドトスの逸話集『歴史』にはフィリッピデスという伝令が登場しますが, マラトンの戦いの直前に援軍を要請するためにアテネからスパルタまでを2日間で走破したことになっています。このいい伝えに基づいてアテネ- スパルタ間246kmを36時間以内で走破する「スパルタスロン」という競技があります。大会要項は http://www.r-wellness.com/spartathlon/

ところで,ギリシアで走る人といえば,国語の教科書でもおなじみ『走れメロス』。 そのメロスは何kmを走ったのでしょうか? 青空文庫さんから『走れメロス』をダウンロードしてみたら, 作品の書き出しに次のようにありました。

メロスは激怒した。必ず,かの邪智暴虐《じゃちぼうぎゃく》の王を除かなければならぬと決意した。メロスには政治がわからぬ。 メロスは,村の牧人である。笛を吹き,羊と遊んで暮して来た。けれども邪悪に対しては,人一倍に敏感であった。 きょう未明メロスは村を出発し,野を越え山越え,十里はなれた此《こ》のシラクスの市にやって来た。

そして「……処刑までに三日間の日限を与えて下さい。たった一人の妹に,亭主を持たせてやりたいのです。 三日のうちに,私は村で結婚式を挙げさせ,必ず,ここへ帰って来ます」 といってセリヌンティウスを身代わりにして妹の結婚式に往復するのですから,走破距離は3日間で約80kmといったところでしょうか。 フィリッピデスやスパルタスロンと比べると,全然大したことないことがわかります。

ハードディスクの中にある3冊の辞書で秋雨《あきさめ》をひいてみました。

 

○新解さん(第5版)……強くはないが続けて降る,冷たい秋の雨。
 
  ○スーパー大辞林……秋に降る雨。秋の雨。
 
  ○広辞苑(第5版)……秋に降る雨。秋の雨。特に9月から10月にかけての長雨にいう。秋霖。秋黴雨。

新解さんか広辞苑が感覚にもっとも近いです。広辞苑にもあるように,9月から10月ごろの長雨を“秋霖” 《しゅうりん》ともいいます。

●秋雨前線

その秋雨を降らせるのが“秋雨前線”です。なんとなく梅雨前線に似ているので,ちょうど梅雨前線の “出戻り”のように見られがちです。しかし見かけは似ているところがありますが,梅雨前線が中国南部や東南アジアからインド洋, アフリカ東岸まで広がる地球規模の現象の一部なのに対し,秋雨前線は南に後退した太平洋高気圧と大陸やオホーツク海の高気圧との間にできる, 地球規模から見ればローカルな?!前線です。裏を返せば日本付近固有の現象ともいえます。

いつごろから秋雨前線とよばれるようになったのかはよくわかりませんが, 朝日新聞の1964年8月27日付夕刊に次のような記事が載っているので,このころまでにはある程度認知されていたのでしょう。

 

「暑さようやく退散するころ」も過ぎて朝夕に秋の気配を感じるころになったが,二十七日の東京は午後一時までの最高気温二十四・   六度で,平年よりも五・三度低い秋のお彼岸ごろの涼しさ。日中の気温ではこの夏最低を記録した。
 
  気象庁天気相談所の話では,十四号台風くずれの低気圧が前線をひっぱって通過したあとへ,   オホーツク海高気圧が張出して冷たい空気をはこんできたのと,本州南岸に前線が停滞し,厚い雲におおわれているため。そしてこの前線,   秋のはじめに現れる“秋雨前線”のはしりではないかという。「変りやすい秋の空」ともなり,夏山シーズンは終りを告げるわけ。

どうして唐突に何の脈絡もなく山の話が出てくるのかは,イマイチよくわかりません。

●村を滅ぼした1000mmの雨

一般に,秋雨前線によって降る雨は“しとしと型”のことが多いといわれていますが, もちろんそうでないときもあります。とくに台風などに伴って南から暖かい湿った空気がはいってくると, 前線が活発になって大雨や強雨を降らせることがあります。

1965年9月の台風23号,24号,25号はそんな台風でした。

とはいうものの,最初に現われた23号はどちらかというと“風台風”で, 高知県安芸市付近に上陸した10日に室戸岬で風速(瞬間ではありません)69.8m/sを観測するなど,各地で暴風が吹き荒れました。 上陸後もあまり勢力を落とすことなく高速で四国東部,近畿地方西部を通過し,丹後半島から日本海に抜けました。

台風23号が去ったあと,移動性高気圧におおわれましたが, 南から大型の24号とそれに従う鉄砲玉のような“豆台風”25号が北上してくると,秋雨前線が再び活発になりました。

そして13日夕方から西日本で雨が降りはじめ,14日朝には四国東部,紀伊半島南部, 近畿地方北西部で大雨になり,昼ごろには大雨の範囲が四国・近畿全域,北陸西部に広がり,この状態が15日まで続きました。この大雨のため, 人口6万人の徳島・阿南市では全市がほとんど水に浸かり, 有馬街道の土砂崩れのため有馬温泉が一時孤立寸前になるなど各地で被害が相次ぎました。

中でも福井県西谷村では, 降りはじめの13日夕方から15日20時まで1037mmの記録的な降水量となりました。この間に1時間最大降水量91mm, 10分間最大降水量22mmを記録しています。西谷村の中心部だった中島地区では川の氾濫流や土石流により, 全戸数106戸のうち42戸が流失,58戸が倒壊,役場,小学校まで土砂に埋まる被害を受けました。

西谷村はこの壊滅的な被害から立ち直ることができず,翌年の真名川ダム建設決定により, 1970年7月に廃村となりました。

ちなみに,14日09時から15日09時までの24時間に711mmの記録的大雨が降った岐阜県徳山村も, のちに徳山ダム建設のために廃村になっています。この徳山ダムは2007年完成予定だそうです。必要があるのか, それとも土建屋の金儲けだけのためにつくるのかは知りません。

なお,9月10日からの1週間に台風23号による暴風,13~15日の秋雨前線による豪雨, 17日の台風24号による大雨と相次いで大きな災害に襲われた福井県では,これを“福井県昭和40年9月の三大水害”と名づけた――と 「気象要覧」にありますが,今ググってもまともにヒットしないところを見ると,とっくの昔に死語になっているのでしょう。

●取材車が海に転落

“鉄砲玉”25号が東に飛んでいったあと,“御大”24号が17日夜に愛知県に上陸, 地形の影響で中心部が分裂した形で,中部地方から東北地方を縦断したのち,北海道を南岸沿いに進みました。

18日未明,台風24号の取材のために東京・江東区方面に出動していたラジオ関東(現・ラジオ日本) の取材車が,記者やアナウンサーら6人を乗せたまま晴海埠頭から海に転落,全員死亡するという事故が起こりました。 光る海面を舗装道路と見間違えたのだろうといわれていますが,全員死亡しているため,真相はわかりません。

このことだけを見ても,ヤラセではない本当の台風中継がいかに危険なものかがわかります。

なお,ちょうど台風24号が通過中の17日夜から18日未明にかけて, 関東地方と東北地方で8回の有感地震がありました。最大震度は福島で震度5(強震),郡山,水戸,前橋などで震度4(中震),東京,横浜, 仙台などで震度3(弱震)でした。強震,中震,弱震といったことばに時代を感じます。

1949年9月3日朝8時半ごろ,隅田川に男の死体が浮かびました。 男は荒川区南千住一〇の一四〇都営住宅在住斎藤作次(61)。

どこかで見た名前。そう,
http://blog.notenki.net/2006/08/post_4ec9.html
の事件のあと姿を消していた被害者の父親です。

以下,当時の新聞より。

去る一日荒川区南千住一〇の一四〇都営住宅内露天商斎藤作次(六一)長女登美子(二〇) さんが自宅四畳半で絞殺されていた事件につき警視庁捜査一課では南千住署と協力, 前夜から姿を消している父親作次の行方を探していたが三日朝八時半ごろ同都営住宅裏の隅田川に水死体となって発見された
検視の結果死後卅時間以上を経過しており, 死体の首にはこぶし大の石三個を入れたズツクの鞄が細ひもで縛りつけてあつたので娘を絞殺し無理心中をとげたものとみられる。 生活苦から前途を悲観したものらしい(9月4日付読売)

首に娘を絞め殺したのと同じ麻ひもを二重に巻き,その先にズックの手提げカバンに子供の頭大の石三つ, 鉄ビンのふたなどを入れてつるし河に飛び込んだらしく遺書はないが最近商売不振のうえ妻を戦災で失くし息子が未復員で父娘の二人暮らしでさびしがつていた点などからあらしの夜発作的に無理心中したものと見られる (9月4日付毎日)

ということで,暴風雨の中の惨事は無理心中ということで幕が引かれました。

ただ,どうも腑に落ちない点があります。作次はどこから隅田川に飛び込んだのでしょうか。 少なくとも新聞記事からではわかりません。家のすぐ裏から飛び込んだのだとすると,いくら滑走斜面側とはいえかなり下流に流されるはずです (何かに引っかかったというのなら別ですが)。増水していたことも考えに入れると,かなり上流から飛び込んだと考えざるを得ません。でも, かりに岩淵水門より上流に飛び込んだとすると,荒川放水路(現,荒川)から東京湾に出たはずです。

まあ,今さら考えてもどうにもなりませんが。しかもシロウトの考えることですし。ただ, 捜査が尽くされたかどうかは疑問です。

2003年9月3日,関東地方は激しい雷雨となり,18時半ごろ国会議事堂のシンボルである中央塔の避雷針周辺に落雷がありました。

しかし,残念ながら国会は閉会中……。

国会議事堂への落雷はこれが最初のようです。

政府機関への落雷では,「♪あゝ 一億の民は泣く」と歌われた紀元二千六百年の1940年6月20日,大手町の逓信省航空局への落雷が最も有名でしょう。この落雷によって建物が炎上,火はみるみる広がり,大蔵省などが全焼しました。

この年は奇しくも平将門の没後1000年にあたっており,雷が落ちたのは「将門公の首塚」のすぐ近くでした。もともと大蔵省はこの首塚を取り壊そうとした経緯があるので,将門公のたたり再燃と噂されました。

ちなみに,明治以降,将門公のたたりが爆発したことが少なくとももう1回あります。このときはなんと台風を召還したのですが,これについてはいずれ。

1950年8月30日09時に小笠原の西方海上で確認された熱帯性低気圧(当時の用語)が西北西に進み, 9月1日15時に台風となりました。これがジェーン台風です。 このときの中心気圧は975mbと推定されています。 台風は発達しながら北西~北北西に進み, 2日15時に四国の南方海上に達したときには940mbまで発達しました。

このあたりで進路を北に変え,3日の午前中には室戸岬をかすめ, 速度を速めながら正午ごろ神戸市垂水付近に上陸しました。神戸では3日12時10分に964.3mb,最大風速33.4m/s, 最大瞬間風速47.6m/sを観測しました。

気圧の低下と吹き寄せる風の影響で,大阪での潮位は満潮面上2.1mに達したと推定され, これに満潮が重なったために,西大阪から兵庫県南東部にかけては一面の海と化しました。

ジェーン台風による被害は,死者336,不明172,負傷10930,住家破損56131, 浸水166605などとなっています。

稲村ジェーン(1990年)という映画は, ジェーン台風のときに稲村ヶ崎にやってきたという伝説のビッグウェーブ「稲村ジェーン」 を待つ1960年代中ごろの若者たちの夏を描いた映画(らしい)です。私はサーフィンには何の興味もないので,ホントに「稲村ジェーン」 なるビッグウェーブがやってきたかどうかは知りませんし,波にも詳しくありませんが,ジェーン台風の発生位置や進路から考えると, とくにいい波がやってきたとは思えません。いい波をもたらしそうな台風なら他にいくらでもあったと思います。伝説はあくまで伝説でしょう。

某著名ミュージシャンが監督を務めたこの映画は,今では伝説ともいえる駄作中の駄作で, やはり天は二物を与えなかったとか, 本来ならタダで見せるべきプロモーション映画をカネを取って見せるとはとんでもないとかいわれていました。 映画の評判はともかくサントラ盤はバカ売れしたそうなので,某著名ミュージシャンはウッシッシッだったことでしょう。

1953年から女性名は日本国内では使われなくなりましたが,米国では使われ続けていて, 気象庁も海外に台風情報を発信するときはこの女性名も記載していました。

ところが,台風とは比べものにならない異次元(ヤプールか(笑))の恐ろしさを持つ女性団体の圧力で, 1979年の台風3号から男女名が交互に使われるようになりました。その後, 2000年からはわけのわからないアジア名が使われるようになって現在に至っています。

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。