お天気,暦,競馬などに関するメモです。以前発行していたメルマガ「能天気Express」のブログ版みたいなものです。

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2008年6月2日以前の記事は他のブログからインポートしたため,画像へのリンクが切れています。画像の元データはどこかにあるはずですが,どれがどの画像だったのかわからなくなっているし,新たにサイズなどを変換するのが面倒なため,問い合わせをいただいても画像を復活させることはしません。まあ,大して貴重な画像があるわけではないですから(笑)
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天和二年十二月二十八日(グレゴリオ暦では1683年1月25日,以下同様),駒込大円寺から出た火は, 折りからの北西の季節風に煽られて本郷,神田,伝馬町,日本橋に燃え広がり,3500人以上の死者を出しました。これが江戸十大火のひとつ 「お七火事」です。

お七八百屋お七)は実在の人物で, 放火の咎で天和三年三月二十九日(1683年4月25日)に火炙りの刑に処せられたのも事実のようですが, お七が放火した火事については天和二年一月説,天和三年三月説などがあり,特定できる確固たる根拠はありません。ただ,皮肉なことに 「お七火事」がお七が放火した火事ではないことは確かなようです。σ(^^;)的には, お七の放火は天和三年三月だとするのがもっとも違和感がありません。

この火事は,天和三年三月二日(1683年3月29日)の夜, 本郷の森川宿の八百屋の娘お七が近くの商家に放火したところを通行人に発見され,すぐに消し止められたというもので,今流にいえばボヤです。 しかし,当時はボヤでも放火は放火,市中引き廻しの上火炙りと相場は決まっていました。

放火の動機は,天和二年十二月二十八日の火事(要するに「お七火事」)でお七の家も被災して正仙院というお寺に仮住まいした際,そこの “イケメン”と恋仲になったのですが,新居が完成して会えなくなり,再び火事になれば会えるという妄想が放火に駆り立てたとされています。 なお,この動機についても諸説ありますが,お七の年齢,被災した火災,仮住まいしたお寺の名前,“イケメン”の名前などに違いはあるものの, 大筋では似たりよったりです。

お七のお墓は,文京区白山の円乗寺に現在も存在します(写真参照)。お参りすると, 恋の成就に霊験があるとか,ないとか。

   2006-12-28_303218325_1

ちなみに,内田康夫『追分殺人事件』では,1987年3月7日にこのお墓の前で男が殺されることになっています。 作品ではこの日雪が降っていたことになっていて,実際に東京では午後から雪になりました。降雪の深さ合計は7日が3cm, 翌8日が2cmとなっています。

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12月27日,11月25日に起こった殺人事件の容疑者と目された青年が,谷中霊園で首吊り死体となって発見されました。(内田康夫『上野谷中殺人事件』。ただし,12/28の可能性もあり)

スマトラ島沖のインド洋で発生した地震による津波から2年たちました。

というわけで,一昨年メルマガに書いた「津波ア・ラ・カルト」をほとんどそのままお届けします(笑)

●津波とは

津波は波長の非常に長い波です。変動した海底の範囲の大きさにもよりますが,数10km~数100km程度です。したがって, 波といっても風によって起こるふつうの波(風浪やうねり)とはかなり性質が異なり,潮汐によって起こる波や高潮に近い性質をもっています。 日本では数十年くらい前まで,高潮と津波はとくに区別されていませんでした。

●津波の速さ

津波の波長は海の深さに比べて非常に長いため,浅水波とよばれる波の性質をもちます。 浅水波の特徴は波の速さが深さのみによって決まることで(波長によらない),海の深さをh(m)とすると,次の式で計算できます。

  c = (9.8 * h)^(1/2)

例えば,h~3000(m)(海の平均的な深さ)を代入すると,c~170(m/s)≒620(km/h)となり, ものすごいスピードであることがわかります。

1960年の「チリ地震津波」は,地震発生から約23時間後に地球の裏側の日本の沿岸に到達し, 死者不明者142人など大きな被害をもたらしました。はるか彼方からやってきた津波が非常に強力だった原因としては, 地震の規模がきわめて大きかったこと(観測史上最大のモーメントマグニチュード9.5),日本は震源からほぼ地球の反対側にあるため, いったん広がった津波が収束する位置にあったこと,ハワイ諸島が日本に波を集めるレンズの役割を果たしたこと……などがあげられます。

●津波は岸に近づくと高くなる

海のど真ん中で津波に遭遇したとしても,ほとんど影響はありません。 数10km~数100kmの範囲でせいぜい数メートルくらいしか海面が変化していないのですから,おそらく誰も気づかないでしょう。

ところが津波が岸に近づくと,水深が浅くなるため,スピードが遅くなります。そのため,分散していたエネルギーが集中することになり, 波高が高くなるとともに強力な破壊力をもつことになります。波の前面が切り立って段状になることもよく見られます。

去年のスマトラ沖地震でも,ドイツ人観光客が撮影したビデオに段状になった津波の前面が写っていました。ちなみにこの人, "tsunami"ということばを知っていましたが,どこで知ったのか興味があります。というのも, ヨーロッパでは津波による被害が最近ではほとんどなく,大きな被害は1755年の「リスボン地震」にまで遡るからです。なお, 地震津波ではありませんが, サントリーニ火山のカルデラ生成に伴って発生した津波によるミノア文明の崩壊がアトランティス大陸伝説のもとになった…… という説があります。

津波の高さは,V字形に開いた湾の奥のほうほど高くなる傾向があります。これは左右から波が集まってくると考えれば理解しやすいでしょう。 また,津波の周期と湾の固有の周期が近いと,共振が起こって津波が異常に高くなることがあります。

●津波の高さと遡上高

新聞やテレビなどの報道に見られる“津波の高さ”は,波の高さなのか“遡上高”なのかわからないことがあります。というより, 遡上高を津波の高さといっているケースが多いように思われます。遡上高は陸上の何メートルの高さまで津波が到達したかということで, 一般に波の高さの2~4倍あるいはそれ以上になります。

1771年の「八重山地震津波」では,石垣島を襲った津波の最高遡上高が85mに達したという記録があります。 この記録はギネスブックに載っているという話ですが(σ(^^;)は確認していません),実際にはそんなに高くはなかったようです。 それでも40mくらいはあったようです。

なお,地震津波以外では,1958年にアラスカ南部のリツヤ湾で地震による岩石崩壊によって高さ520mの津波が発生したことがあります。

●津波は引いてから押し寄せる?

津波はいったん引いてから押し寄せる……とよくいわれますが,引いてから押し寄せることもいきなり押し寄せることもあります。

●歴史上の津波

国内の文献でもっとも古い津波の記録は,684年の「白鳳南海地震」(「南海地震」の最古の記録とされています) のときに土佐国を襲った津波です。『日本書紀』には被害として「調運ぶ船,多に放れ失せぬ」とあるだけですが, 多くの人命が失われたことは想像に難くありません。朝廷としては“租庸調”にのみ関心があったのでしょう。

1498年の「明応東海地震」(何回か前の「東海地震」)に伴う津波では,淡水湖だった浜名湖が海とつながり, 鎌倉の大仏の大仏殿が流されました。大仏さんはさすが修行を積んでいる?!とみえて(といっても座っているだけのような気がしますが(笑)) ,踏みとどまったらしいです。

また,同じく「明応東海地震」による津波で,日蓮の生家跡に建てられた誕生寺が流されて海に沈みました。 しばらくして別の場所に再建されましたが,1703年の「元禄地震」(ひとつ前の関東地震といわれます)による津波で, またもや流されました。というわけで,現在,天津小湊町にある誕生寺は3代目という話です。「日蓮の生まれ給いしこの御堂」は海の中です (内田康夫『日蓮伝説殺人事件』参照)。

●最後に

津波ということであれば,明治(1896年)と昭和(1933年)の三陸地震津波や北海道南西沖地震(1993年),“秋田沖地震” (1983年)などに触れるのがふつうでしょうが,古い話好きのσ(^^;)的には新しすぎるので,取り上げませんでした。

古い話ということでいえば,1341年に十三湊を滅ぼしたとされる津波については,興味はあるものの, 信憑性が疑わしいのであえて取り上げませんでした。

????/12/25 女性専用マンションの一室からその部屋の住人が慌ただしく越して行く(内田康夫『朝日殺人事件』)

????/12/25 ノラが生きがいある人生を求めて家を出る(イプセン『人形の家』)

σ(^^;)がちょうど仙台に住んでいた1980年,大停電が起こって街中の灯が消え,雪明かりだけという, これぞホントのホワイトクリスマス──を体験したことがあります。

23日に四国沖に発生した低気圧が急速に発達しながら南岸を通過したため,24日にかけて東北地方は南部を中心に暴風雨雪になりました。 仙台では23日に降りはじめた雨が24日未明から雪に変わり,18時に積雪25cmを記録しました。

イブの日は,この雪のため,交通機関はマヒ状態。σ(^^;)は何を血迷ったのか午前中にパスで中心街に出かけていったのですが, 帰りはバスが坂を上れないという理由で途中で折り返し運転になってしまい,そこから先は雪中行軍になりました。 どこからともなくあの映画の芥川也寸志作曲のあの曲が聞こえてきたような……。そうです,「八木山死の彷徨」(笑)
「天は我々を見放したか……」

さて,この日の雪はかなり湿った雪で,その湿雪が送電線に付着,そこに強風が吹きつけました。 送電線はふつうの状態では強風の中でもあまり振動しません。そのように設計されているからです。ところが, 雪が付着して形状が変わると話は変わり,ギャロッピング(galloping)とよばれる振動を起こすことがあります。

ギャロッピングはフラッター(flutter)とよばれる自励振動の一種で, いったん振動がはじまるとその振動によってまわりの空気の流れが振動を助長するようにはたらきます。その結果, 風さえ吹いていれば振動は続き,風が強くなると急激に振動が激しくなります。この振動は風の強弱の変化(風の息)とは関係なく, 定常な空気の流れの中でも起こります。十数m/sを超える風が吹いたとき, 1~10秒程度の周期で振幅が10mにも達する上下方向のギャロッピングが起こることがあります。

このようにしてあちこちで送電線が切れたり鉄塔がぐにゃりと折れ曲がったりしたものですからさあたいへん。 東北電力仙台営業所管内の全戸数の70%以上という大停電が起こりました。ヒドいところでは27日まで続き,河北新報には

  27日:
    電力は何をしている
    宮城福島 停電三晩目,住民に怒り

  28日:
   “大停電”やっと復旧
    仙台 4日ぶり暗やみ解放

などの見出しが見えます。

σ(^^;)は雪中行軍で帰宅しただけでとくに被害らしい被害は受けていませんし(そういえば, シャーベット状の雪のかたまりが落ちてきて傘が1本ダメになりましたが),停電も翌日には回復しましたから, 雪明かりだけのロマンチックな夜の記憶だけが残っています。

ちなみに,仙台では同月14日にも30cmの積雪を観測しているのですが,こちらはまったく記憶にありません。

ところで,仙台の年末といえば「光のページェント」。ですが光のページェントがはじまったのは1986年ですから, イブの大停電当時はもちろんまだありませんでした。

光のページェントがはじまってから仙台がホワイトクリスマスを迎えたことが 1度だけあります。1992年のことです。

ところが,河北新報からは雪の中の光のページェントに関する記事は見つかりませんでした。見つかった記事(見出し)はといえば……。

  イブの仙台 交通大混乱 寒波襲来 (25日朝刊)
  脱スパイク先進地 心構えはまだまだ (25日夕刊)

スパイクタイヤの使用が禁止されたのは1991年4月でした。

なお,このときの雪は低気圧の通過に伴うものではなく,強い寒気の吹き出しによるものでした。

2000年12月21日,秩父さくら湖でノルウェー貿易振興協会の更井秀敬の溺死体が発見されました。(内田康夫『鯨の哭く海』)

12月18日,八王子市恩方町の桑畑から,萩原朔太郎の詩を髣髴とさせる奇妙な死体が発見されました。(内田康夫『「萩原朔太郎」の亡霊』)

恩方町といえば,童謡「夕焼小焼」の舞台です。ただし,事件との関連はありません。

12月15日,東京都北区の平塚神社境内で男の他殺死体が発見されました。(内田康夫『金沢殺人事件』)

まず,クイズから。

襲撃・暗殺などが雪の降る中で行なわれた事件を次のア~エからすべて選び,記号で答えなさい。

ア 蘇我入鹿の暗殺
イ 赤穂浪士の討ち入り
ウ 桜田門外の変
エ 二・二六事件

解説しよう(今は亡き富山敬さんの声で(笑))。ドロンボーのメカは……って違うって(笑) かなり古いし。

まずアですが,事実とすれば事件が起こったのは皇極四年六月十二日,ユリウス暦では645年7月10日ですので,まあ, ふつうに考えれば雪は降っていなかったでしょう。『日本書紀』にはこの日大雨が降ったという記述があります。

イは本題なので後まわしにして,ウの大老井伊直弼暗殺は雪の降る中で行なわれました。雪が降っていたため, お供の者が雪水がしみるのを防ぐために刀に柄袋をつけていて,刀をなかなか抜くことができなかったことが, 白昼堂々と大老が討ち取られた原因のひとつとされています。

エの二・二六事件は,2月23日に積もった雪は残っていましたが,この日雪が降りはじめたのは襲撃があらかた終わってから後のことです。 前夜からの大雪の中,反乱軍が兵営を出発して首相官邸などを次々と襲撃した……というのは,誰がいいはじめたのか知りませんが,ウソです。

というわけで,正解はウということになります。正解者の中から抽選で……賞品は何もありませんのであしからず(笑)

やっと本題。

赤穂浪士が吉良邸に討ち入ったのは,元禄十五年十二月十五日の寅の上刻とされています。 今の暦では1703年1月31日の午前4時ごろになりますから,1年でもっとも寒い時期のしかももっとも寒い時間帯ということになります。

このときは晴れていて,したがってもちろん雪は降っておらず,赤穂浪士の47人は小望月の月明かりの中, 本所松坂町の吉良邸に向かったのでした。前日に降った雪がざらめ状に凍って,歩きやすかったとのことです。

積もっていた雪の影響も少しはあったようで,討ち入りの初っぱな,門を乗り越えるときに, 原惣右衛門と神埼与五郎が屋根の上に残っていた雪ですべって転落し,足をねんざしたそうです。 ドラマなんかではこの場面は再現されませんね(笑) でも,原惣右衛門ってご老体では……?

討ち入りは夜が白みはじめる前には終わったようです。ドラマなどでは,捕らえれて引き出された吉良上野介に大石内蔵助が 「吉良殿でございまするか」などと人定尋問するのが定番になっていますが, 実際には内蔵助の前に引き出されたときはすでに息がなかったようです。

1703年1月31日の東京の天文データは次のようになっています。

-------------------
天文薄明開始 05:16
市民薄明開始 06:17
日の出    06:42
正中     11:55
日の入    17:08
月の入    05:18
-------------------

討ち入りは夜が白みはじめる前には終わったということは,このデータを見るかぎり, やはり討ち入りは長くても2時間程度だったようです。

1987年12月,あの雪の日曜日から1週間後の13日の朝,目がさめたら,窓の外でカサカサという先週も聞いたような変な音が。 まさかと思って窓を開けて外を見たら,なんと雪でした。ここから先の記憶がないところをみると, たぶんまた寝たんだと思います(笑)

前週と同じように南岸の低気圧に北東から冷たい空気が流れ込み,東京都心で雨から雪に変わったのは09時30分ごろ, そして18時までに3cm積もりました。

例によって例のごとく,おきまりのすってんころりんねんころりんで滑って転ぶ人がまたまた続出,前週を上回る32人がケガをしました。また, 翌14日の朝は冷え込んで路面が凍結したため,関東各地でスリップによる交通死亡事故が相次ぎました。

中山競馬は3レース以降が中止になり,2週続けて日曜日の開催が中止になりました。12月としてははじめてです。

延期されていたミホシンザンの引退式は雪の中で行なわれましたが,芝コースが閉鎖されていたためにダートコースで最後の走りを見せました。

当時,12月の第2日曜に国立競技場で行なわれていたトヨタカップは,もちろん降りしきる雪のためにコンディションは最悪。 勝ったFCポルトのイビッチ監督が「何千試合もしてきたが,こんな悪条件ははじめて」と語っています。これは雪のためばかりでなく,前週の “雪の早明戦”によって芝がかなり剥がされた影響もあったでしょう。

試合は延長の末,FCポルトがCAペニャロールを2-1で破りました。

悪条件が重なった不運もありますが,もともと評判の悪かった日本のグランドの評価がこの日のトヨタカップによって最悪になったのは確かです。 国立競技場の芝が見違えるようになったのは1991年からだったと思います。

1994年12月9日,毎朝新聞和歌山支局の記者と地元の女性が太地町の「継子投げ」から「心中」しました。(内田康夫『鯨の哭く海』)

「競馬世界」という競馬雑誌の創刊第2号(1907年12月発行)に,「目黒競馬會の混亂」と題する記事があり,次のような書き出しではじまっています。

初日はベンテンの銃殺亊件があつて,少からず看客を驚かした目黒競馬會は,二日目に,而も宮殿下の御前で,忌はしき血染沙汰を引起こしたのは甚だ遺憾な亊である

この二日目が1907年の今日12月8日です。

ここで園田実徳なる人物が登場します。目黒競馬を実質的に運営する競馬会社,東京馬匹改良株式会社の創立委員長で当時の競馬界一の実力者です。

さて,騒動の第1ラウンドは第6レース「内国産馬競走」(距離1哩4分の1)。「出立点でスターチングの信号をしない中,鐘を鳴らしたので騎手は皆鞭を加へたが途中から引返して遺直しとは馬鹿気ていた」(12月9日付東京朝日)

要するにスタートミスがあり,カンパイ。その結果,人気だったキンカザンやハクウンが敗れ,穴馬のキキョウが勝ちましたが,その馬主は岡田実徳でした。キンカザンやハクウンの馬券を買った連中は口々に「火を附けて建物を焼いて了はう」「やあい,擲つて了へ」と叫び,暴動の一歩手前。

騒動第2ラウンドは第9レース「内国産馬競走」(距離1哩2分の1)2頭立て。ハナゾノとクヰンタツのマッチレースでしたが,クヰンタツは6月の帝室御賞典を勝った名馬ハナゾノの敵ではなく,どうしてこんなレースが組まれたのか,園田実徳が恣意的にレース番組をつくっているのでは……? という不信感がありました。実際,この日の第8レースまでの内国産馬競走5レースのうち,園田実徳の持ち馬がすでに2勝を挙げていました。

こうした伏線があったため,第9レースにハナゾノが勝利した直後,檜山鐵三郎なる人物が酒気を帯びて記者席に闖入,「園田の馬は已に屡々勝てり,然るに又ハナゾノを出して勝を貪れり,こは寧ろ園田の名の為に惜しむべきに非ずや……」と演説をはじめました。記者たちが相手をしないでいると,それを見ていた群衆が檜山に同調して騒ぎ出し,場内が混乱しはじめました。そこに園田に雇われていた“馬丁”があらわれ,檜山の頭をビールびんで殴って大ケガを負わせるという流血沙汰に発展しました。

競馬会はすでにハナゾノの当たり馬券を5円の元返しで払い戻ししはじめていました。しかし群衆が「クヰンタツはもっと売れていたはずだ」と金網や木板,ガラスなどを壊しはじめたのを見て,未払い分については50銭の割り増しをつけることになりましたが,今度はすでに払い戻しを受けた人々が騒ぎ出す始末。それでも大事にはいたらなかったようで,事態はすぐに収束したようです。

ちなみに,騒動のおおもととなった園田実徳の弟が,元近衛少尉武清澄の家に養子にはいり,武彦七となります。彦七の長男芳彦の三男が武邦彦で,武邦彦の三男が武豊です。

早い話が,武豊は明治の日本競馬を恣意的に操っていた人物の一族なのです。その武豊をJRAがどう遇しているかは,いわずとも明らかでしょう。

1907年12月7日,目黒競馬場がオープンしました。今の東京競馬場の前身に当たる競馬場です。

ところがオープン初日のこの日,さっそくその後のドス黒い日本競馬を暗示するような事件が起こっています。

12月8日付の東京朝日新聞にかなりショッキングな見出しがあります。もっとも,当時の東京朝日新聞は馬券競馬反対に論調が傾いており(宣言するのは翌年1月),多少割り引いて読まなければならないですが。

非道残忍
(衆人の前に傷馬を銃殺す)


第5競走「外国産馬競走」(距離4分の3哩)のゴール直後,ベンテンという馬が前脚を骨折,転倒するという事故が起こりました。今の中央競馬なら外から見えないようにして薬殺の処置がとられるのでしょうが(ただし,ハマノパレードがそうでなかったことは比較的よく知られています。地方競馬によってはハマノパレードになされた処分と同じようなことが今でも行なわれているという話を聞きます),なんと「一外人は馬場の中央衆人の面前にて四肢を縛せしめ置き眉間にピストルを当て之を銃殺したり」(同紙)

翌8日には暴動と暴力事件(こちらは比較的有名)が起こり,9日付の東京朝日新聞には「血染の競馬場 馬札売場の大騒動」という見出しがあるのですが,これについてはまた明日ということで。

1944年12月7日13時半過ぎ,東海道沖を震源域とするマグニチュード8.0の地震が発生しました。「東南海地震」です。『理科年表』には

静岡・愛知・三重などで合わせて死・不明1223,住家全壊17599,半壊36520,流失3129.このほか,長野県諏訪盆地でも住家全壊12などの被害があった.津波が各地に襲来し,波高は熊野灘沿岸で6~8m,遠州灘沿岸で1~2m.紀伊半島東岸で30~40cm地盤が沈下した.

とあります。

当時の新聞はどう伝えたかというと,例えば翌8日付の朝日新聞には次のようにあります。

十二月七日十五時五十分発表(中央気象台)―本日午後一時三十六分ごろ遠州灘に震源を有する地震が起つて強震を感じて被害を生じたところもある

この部分は各新聞共通です。

続いて各地のようす。なお,マイクロフィルムから複写してからスキャナで取り込んだものを読んでいる関係で判読できない文字もあるので,引用ではなく要約します(「」の部分は引用。漢字は今の漢字)。

  • 浜松……「空襲の体験を得て来た一般人の待避はまづ順調であった」浜松市内外の工場では,地震によって生産力を落としては相済まない,今日8日は平常どおりの作業を行なうばかりかさらに能率を上げようと生産増強に結束して立ち上がった。疎開学童に異常はない。
  • 静岡……県はただちに対策本部を設け,「学徒等の応援を求めて逞しき復興に乗り出した」また,賀茂郡下田町では14時30分ごろに津波があり,「浸水家屋を生じた」
  • 東海……「東海地方を襲つた七日の地震は意外な強震だったが一部に倒半壊の建物と死傷者を出したのみで大した被害もなく郷土防衛に挺身する必勝魂ははからずもここに逞しい空襲と戦ふ片鱗を示し復旧に凱歌を上げた」

当局の厳しい報道管制のために実態を曲げて伝えているのは確かですが,今の視線で読めば,隠そうとしても隠しきれない被害のようすが見え隠れしている感じです。あくまで今だからわかることでしょうけれど。

ちなみに,アメリカの大新聞などはこの地震を大きく伝え,例えば,8日付ニューヨークタイムスの1面トップには"JAPANESE CENTERS DAMAGED BY QUAKE"という大きな見出しがあります。また,9日付の同紙には

Though they disclosed that great war-production centers, including Osaka, Nagoya, Hamamatsu, Shizuoka, Nagano and Shimizu were in the destruction area, they attempted to minimize damage.

とあり,完全に見透かされています。このことだけを見ても,およそ勝てそうもない戦争だったことがよくわかります。こんな戦争をおっぱじめた首脳の責任は地球より重いです。

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※ディズニーランドが好きな人は読まないほうがよろしいかと思います。

2003年12月5日,浦安ディズニーランドスペース・マウンテンの車輪を支える車軸が折れて車輪がはずれるという事故が起こりました。安全装置が作動したためけが人はありませんでしたが,2004年2月18日まで運転は中止されました。

公的には浦安ディズニーランドでは死亡事故0ということになっているみたいですが,歴史をひもとくと,とくにスペース・マウンテンで死亡事故が何回か起こっていることがわかります。

中でも,1987年6月に元アイドル岩井小百合さんの恋人が急死した事故は有名です。ゴールに着いて小百合さんが恋人のほうを見たところ,ぐったりしていたそうです。死因は脳出血ということになっています。

とはいうものの,浦安ディズニーランドで死亡事故0というのは必ずしもウソともいえないそうで,それというのも死亡の確認は搬送先の病院でなされるからです。でも,F1のレース中に死亡したドライバーはひとりもいないといっているようなもので,かなり無理のあるへりくつでしょう。

ついでですが,浦安ディズニーランドの都市伝説のひとつに「スペース・マウンテンの位牌」というのがあります。この話によると,コースになぜか位牌が置かれているそうで,かつてスペース・マウンテンから子どもが転落して死亡したという事故があり,位牌が置かれているのは子どもが落ちたところ――なのだそうです。

位牌の真偽はわかりませんが(σ(^^;)は乗ったことがないので。しかも確かめようにも今はリニューアル中だし),このような死亡事故が起こったという事実は少なくともσ(^^;)が調べた限りはありません。

2000年12月4日,秩父夜祭りが終わったこの日の朝,秩父市内の羊山公園で,ホームレス風の初老の男性の絞殺死体が発見されました。(内田康夫『鯨の哭く海』)

12月の第1日曜には福岡国際マラソンもあります。

1987年12月6日に行なわれた福岡国際マラソンは,中山竹通が悪コンディションの中, 35kmまで当時の2.07.12の世界最高時の通過タイム1.45.40を上回るペースで快走,後半の冷たい雨(みぞれ?) でスタミナを奪われて記録更新はならなかったものの,2時間8分18秒で優勝しました。このタイムはシーズンの世界最高,歴代(当時) でも10位の好タイムで,ソウル五輪への切符を事実上手中にしました。

当初,ソウル五輪の男子マラソン代表はこの福岡国際での一発選考といわれていました。ところが, 瀬古利彦 (最近では日テレの箱根駅伝中継に出てきてはピントはずれなことをいうあの人物)が足をケガして出場できなくなった途端に, 選考は翌年3月のびわ湖毎日マラソンまでと変更される始末。このとき中山が瀬古に対し「這ってでも出てこい」といったというのは有名な話です。実際には「ボクなら這ってでも出る」といった―― という話もあります。まあ,本当は何といったかはわかりませんが,中山は怒りをこの福岡国際でぶっちぎって勝つことで示したのでした。

這ってでも出てこなかった瀬古は翌年3月13日,選考最後のびわ湖毎日マラソンに出場, 優勝はしたもののレース内容はシロウト目にも評価に値しないレベル。タイムもごく平凡なら(2時間12分41秒), 35-40kmのスプリットが17分01秒というのは,いくら向かい風だったとはいえ女子マラソン並みです。 もう瀬古の時代は終わっていたのでしょう。それでも昔の名前でソウル五輪に出ましたが,予想どおりの惨敗に終わりました。

1987年12月6日,低気圧が発達しながら鳥島付近を通過,この低気圧に向かって北東から冷たい空気がはいってきました。このため, 東京は最低気温0.9℃と冷え込み,前夜からの雨が06時から雪に変わりました。これがこのシーズンの初雪で, 戦後では1962年に次いで2番目に早い初雪です。そして,09時には積雪2cmを記録しました。東京以外の積雪は,八王子2cm, 宇都宮4cm,軽井沢25cm,日光23cm,秩父7cmなどとなっています。

この雪の影響で,奥多摩有料道路が09時から全面通行止めになったほか,東北,関越, 常磐などの自動車道路でも一時チェーン規制や速度制限が行なわれました。

東京で雪が降ればおきまりの相次ぐおむすびコロリンスッテンコロリン。東京消防庁の調べでは,この日だけで28人が重軽傷を負いました。 σ(^^;)は,大のおとながこれしきの雪で滑って転ぶのがいまだに信じられないのですが。

神宮外苑では,ほどよい感じで雪が降り,「思わぬ都心の雪景色に若者たちはちょっぴり“ロマンチック気分”」(毎日新聞)

初雪のデートといえば,サンさまだかヨンさまだかゴさまだかロクさまだか知りませんが,そんな名前のマッチョ男優 (書いてから気づいたのですが,“男優”はアレもののビデオ以外ではあまり使わないような気も(^^;)) のあのドラマの有名なシーンらしいです。あちらには“初雪のときに好きな人と一緒にいると結ばれる”というような迷信があるそうで, あのシーンにはこの迷信が背景にあるのでしょう。最近では初雪の日にはケータイの回線がパンクする――という話も聞いたことがあります。

ついでに大晦日,チュンサンとかいう高校生が交通事故で死んだことになっていますが(ちょっと違うかも), これは大晦日というのがポイントです。大晦日は年の境界なので時空の裂け目が現われるという古くからの民族的な信仰があり (あの国にもあるのかどうかは知りませんが),のちの展開が暗示されているような気がします。 それにしてもあの国の高校では元旦に学校に行くことになっているのでしょうか。

なお,σ(^^;)はキムチが大っ嫌いなので,あの国のドラマは見ません。ついでにひとこと,キムチ食ったら電車に乗るな!! 臭くてかなわん。

ところで,明日は12月の第1日曜日。12月の第1日曜日といえば,ラグビー早明戦です。

今では12月の第1日曜と決まっているようですが,以前は12月の第1日曜以外に行なわれたこともあり, 例えば1957年と1973年などは12月の第2日曜に行なわれています。

1987年12月6日はなんと12月の第1日曜でした。そういうわけで国立競技場は一面の雪――。しかし, 何があろうと中止にならないタテマエのラグビー,中止にしてはなるまじと約200人が雪かきに動員され, なんとかキックオフができる状態にこぎつけました。ビデオで見ると,それでもグラウンドのあちこちに雪が残っています。

コンディションがコンディションだけにミスも多く,好試合だったとは必ずしもいえませんが,歴史に残る名勝負だったことは確かです。 とくに最後の10分などはいまビデオで見ても力がはいります。

試合は,先制した早稲田が一時は逆転されたものの今泉の2つのペナルティーゴールで再逆転, 最後の明治の重量フォワードの猛攻を必死のディフェンスで凌ぎ,10-7で逃げ切りました。

早稲田はこのシーズン,大学選手権も制し,さらには日本選手権で東芝府中も破り,学生としては(おそらく) 最後の日本チャンピオンになりました。ちなみに,このときのNo.8が清宮・早稲田大前監督です。

なお,ラグビーが何があろうと中止にならないというのは,あくまでタテマエです。それが証拠に, 1996年2月18日には雪のために日本選手権の決勝が順延,1998年1月には同じく雪のために日本選手権の1回戦が順延になっています。 また,1989年1月にはおよそ説得力があるとは思えない理由で全国高校大会の決勝は中止,大学選手権の決勝は順延になりました。

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