「MK5」「チョベリバー」などのように?! いつの間にやら使われなくなったお天気用語を少ないながら集めてみました。なお,「大陸せん風」や「颶風」などかなり昔に死に絶えたことばは入れてありません。
●台湾坊主
台湾付近で発生する低気圧です。急速に発達しながら日本の南岸沿いを通ると,強風などで大荒れの天気をもたらしたり,コースによっては太平洋側に“大雪”を降らせたりすることもあります。
最も有名な台湾坊主は「昭和45年1月低気圧」でしょう。当時の新聞には
“台湾坊主”ひとあばれ
“台湾坊主”各地で大暴れ
などの見出しが大きく躍っています。
「台湾坊主」がいつから使われなくなったかは定かではありません。ただ,『NHK最新気象用語ハンドブック』(1986年)には「「台湾坊主」は使わない」とあるので,1980年代までは使われることもあったのでしょう。『新版 NHK気象ハンドブック』(1995年)にはなんにも書いてないので,この時点までにほとんど死滅したと思われます。朝日新聞の見出しでは,1975年が最後です。
最近は「東シナ海低気圧」といわれることが多いです。また,日本の南岸を通る低気圧は「南岸低気圧」とよばれます。面白みのない名前です。
●弱い熱帯低気圧
今回取り上げた死語の中ではもっとも最近まで生きていたことばです。中心付近の最大風速が17m/s未満の熱帯低気圧のことでした。
1999年の夏,弱い熱帯低気圧のもたらした大雨によりDQNの川流れをはじめとする増水事故が頻発したのをきっかけに,翌2000年から廃止されました。同時に「弱い(台風)」「小型の(台風)」なども廃止されました。
それからというもの,たんに熱帯低気圧といった場合,総称なのか元“弱い熱帯低気圧”のことなのかわかりにくくなりました。また,やたらと“ただの台風”が増えることにもなりました。
ちなみに,σ(^^;)は元“弱い熱帯低気圧”を“ただの熱帯低気圧”,強さや大きさの表示がない台風を“ただの台風”とか“ノーブランド台風”とかよんでいます。
ついでに,気象の本は売れないので,ちょっと古い本がそのまま書店に並んでいたりすることも珍しくありません。それらの本には1999年までの台風分類表が載っていることもあるので,注意しましょう。
●暴風雨警報
1988年に廃止されました。替わって「暴風警報」が新設されました。それ以前は「暴風警報」はなく,雨に関係なく「暴風雨警報」でした。同時に「風雨注意報」も廃止されました。
なお,「暴風雪警報」「風雪注意報」は残っています。
●異常乾燥注意報・異常低温注意報・雷雨注意報
1988年から“異常”がつかなくなりました。また,「雷雨注意報」も「雷注意報」に短縮されました。
●暖冬異変
1970年代まではよく使われていました。最近は暖冬が当たり前になったので,いつの間にか死語になってしまいました。朝日新聞の見出しで見ると,1993年を最後に使われていません。
●地球の寒冷化
1980年代の前半くらいまでは,地球はだんだん寒くなるぞ~ゴルァ,といわれていました。いつの間にか温暖化教に主流の座を奪われました。いわゆる死語とは違うかもしれませんが,ついでに入れておきます。
昨日1月25日はキリスト教では「パウロ回心の日」になっています。伝道者パウロがキリスト教に改宗したのを記念する日ですが,1月25日に回心したという記録があるわけではなく,なぜこの日なのかは不明のようです。
イングランドには,この日のお天気でその年の天候や災害を占う次のような詩があります(八木谷涼子『キリスト教歳時記』より)。
聖パウロの日が明るく晴れたなら,この年,幸《さいわい》多かろう
雪や雨が降ったなら,穀物みんな不作だろう
曇や霧で暗ければ,鳥や家畜が死ぬだろう
風が空を吹くならば,国が戦《いくさ》で忙しい
また,この日は冬の真ん中とされています。
冬を短い単位でみれば,冬至または12/25のクリスマスからこの日までが冬の前半,この日から02/22の「聖ペテロの日」が冬の後半になります。冬を長い単位でみれば, 11/25の「聖カタリナの日」からこの日までが冬の前半,この日から03/25の「マリアの受胎告知日」または春分までが冬の後半になります。
これを考えると,パウロ回心の日は季節的にうまい時期に配置されていることがわかります。ドイツには「パウロの回心で大地の中で根は向き直る」ということわざもあるそうです。
パウロ回心の日については,フランスに次のようなことわざもあります。(堀田郷弘ほか『フランスことわざ歳時記』より)
聖ヴァンサンの祝日には,冬は牙をなくす。近親の聖ポール(=パウロ)に牙を譲るか,売り渡すから。
聖ヴァンサンとは聖ウィンケンティウスのことで(ちなみに,「焼き肉焼いても家焼くな!」はバンサンカン(笑))――といっても聖ウィンケンティウスなんてσ(^^;)も聞いたことがなかったのですが,聞くところによると,ぶどう栽培業者の守護聖人とされています。その聖ウィンケンティウスの日は01/22。その日に寒さがやわらいだとしても,パウロ回心の日にはまた寒さがぶり返すから油断するなと,このことわざはいっているようです。
1996年の今日,大井競馬場から逃げ出した1頭の競走馬が首都高1号線を爆走して話題になりました。スーパーオトメです。
スーパーオトメはそのあと2月3日にデビューしました。ダントツの1番人気に支持されましたが(入場者も普段よりかなり多かったらしい),大井のダートコースは走り慣れた高速路面と勝手が違ったのか,5着に敗れました。
しかし,首都高を事故もケガもなく3kmも爆走したことから,交通安全の象徴として“オトメちゃん人気”はしばらく続き,スーパーオトメの単勝馬券は交通安全のお守りとして珍重されました。
スーパーオトメはデビューから約1年半後の1997年7月に初勝利をあげ,その年の10月に引退して故郷に帰りました。半兄にフェブラリーHを勝ったチアズアトムがおり,けっして悪い血統ではありません。
2004年に出産した牡馬はハシルコウソクドウと名づけられ,荒尾で走っています。4戦して着順は8-6-3-4。(2007/01/25(Thu)現在)
最近は珍しいのかも知れませんが,競走馬が逃げ出すことはたまにありました。実際,σ(^^;)は福島で2回ほど見たことがありますし,1964年の皐月賞(シンザンの一冠目)ではサツポロホマレがパドックから逃げ出して甲州街道を快走しました。1988年には川崎競馬場から逃げ出したイナズマライデンが堀之内のソープ街を爆走してちょっとした話題になったこともありました。
http://blog.notenki.net/2007/01/post_1e57.html の続きです。長すぎるタイトルを端折って短くしました(笑)
第五連隊の雪中行軍とほぼ同じ時期,福島泰蔵大尉率いる同じく第八師団第四旅団の歩兵第三十一連隊の雪中行軍隊が逆のルートから第五連隊よりもはるかに長い234kmの踏破を12日かけて成功させました。
小説や映画では話を面白くするために,第五連隊と第三十一連隊が互いに競い合ったり(というより競い合うように仕向けられたり),神田大尉と徳島大尉が八甲田山中での再会を約束したりしていますが,そこは縦割り組織のこと,お互いのことはまったく知らなかったというのが真相のようです。
第三十一連隊の雪中行軍隊の成功は,道案内に立った民間人によるところが大でした。とくに増沢から八甲田山中を命がけで先導した大深内村の7人は,現在でも「七勇士」とよばれ称えられているそうです。
最大の功労者であるはずのこの7人は,用が済むとひとことの感謝のことばも受けなかったばかりか「過去2日間の事は絶対口外すべからず」と脅しをかけられ,雪の中に置き去りにされました。しょせん帝国陸軍とはその程度のものでしょう。ちなみに,映画「八甲田山」が上映されたときは,なぜかこのシーンがカットされていました(DVD版にはあります)。
それはともかくとして,隠さなければならないような何があったのか――謎に包まれています。第五連隊の雪中行軍隊の遭難死体を見てしまった……と考えるのがふつうでしょうが(軍の恥になることだから),ひょっとして第五連隊の生存者を見殺しにしたのではないか……と考える人もいます(川口泰英『雪の八甲田で何が起ったのか』)。
ついでに,第五連隊の大隊長の山口少佐は生還後ピストルで自殺したことになっていますが,重度の凍傷を負った指でピストルの引き金が引けるのかという疑問などがあり,発見時すでに死亡していたのに,当時の考えでは指揮官の死亡すなわち負けだから,体裁を繕うために生きていることにしたのでは……ともいわれています。
さて,八甲田の雪中行軍からちょうど3年後,第五連隊と第三十一連隊が所属する第八師団はいわゆる「黒溝台の会戦」ではじめてロシアとの戦闘に参加しました。
この戦いは厳冬期にはロシア軍は戦いを仕掛けてこないと勝手に思いこんでいた無能な陸軍首脳部の虚をついて手薄な左翼方面に大攻勢をかけてきたものです。戦いは激戦となり,第三十二連隊に移っていた福島大尉と第五連隊の雪中行軍隊の生存者のひとりだった倉石大尉はともに戦死しました。
ちなみに,映画「八甲田山」の最後のテロップでは全員が戦死したとなっていますが,生還した人もいます(伊東=伊藤中尉など)。映画や小説はあくまでフィクションです。
(完)
1902年1月25日,旭川(当時は上川測候所)で日本の気象官署としては現在に至るももっとも低い-41.0℃を観測しました。
ちょうど同じころ,津軽海峡を挟んだ八甲田山中では,陸軍第八師団第四旅団歩兵第五連隊の雪中行軍隊が猛吹雪の中をさまよい,210名中生存者わずか11人という大惨事が発生していました(死者には救出後の死亡者・“自殺”者を含む)。新田次郎の小説のタイトルにもなっている「八甲田山死の彷徨」です。この日記の意味不明とも思えるタイトルは,映画「八甲田山」のテーマ(芥川也寸志作曲)の人間カラオケ版です(笑)
神成文吉大尉率いる第五連隊の雪中行軍隊210名(山口少佐をはじめとする臨時移動大隊本部14名を含む)が青森の連隊本部を出発したのは1月23日午前6時55分でした。この日の青森の最低気温は-8.7℃,風は西の微風,夜来の雪は降り続いていたものの,まず平穏な気象条件でした。ところが昼ごろ,小峠での大休止の最中に天気は急速に悪化,気温がみるみる低下し,風雪が強くなりました。このとき永井三等軍医は凍傷者の発生を恐れて帰還を具申しましたが,経緯はともかく雪中行軍を続行することになります。このころから本来編成外であるはずの山口少佐が指揮に口をはさむようになり,指揮系統が乱れ,遭難の要因のひとつになりました。
なお,雪中行軍隊の指揮官はあくまで階級がもっとも上の山口少佐だったという話もあっておそらくそのとおりだと思うのですが,ここでは通説どおりにしておきます。
そのころの気象状況について,「気象要覧」に次のようにあります。
……二十一日一箇ノ低氣壓琉球南部ヨリ南岸ニ沿フテ北東ニ走リ全國ノ天候又一變シタレトモ二十三日該低氣壓ハ極北東海ニ入リ高氣壓部ハ追及シテ天候恢復シ寒風旺盛トナリ日夲海沿岸ハ雨雪殆ト絶エス……
天気図を見ると,21~23日にかけて低気圧(とおぼしきもの(笑))が日本の南岸を進んでいます(今流にいえば南岸低気圧)。等圧線が粗い当時の天気図には描かれていませんが,もうひとつ日本海から津軽海峡付近に進んだ低気圧もあったような感じです(要するに二ツ玉低気圧)。23日の天気の急変は,津軽海峡付近に進んだ低気圧かそれに伴う寒冷前線の通過によるものだったのかも知れません。
ちなみに当時の新聞によると22日,降雪のために大相撲が中止(新聞には“休業”とある)になっています。この日東京で13.3mmの降水量が観測されており,降雪に換算すると数cm~10cmくらいになります。おそらく南岸の低気圧によるものでしょう。
2つの低気圧は23日には日本の東海上に出て西高東低の気圧配置になり,それと同時に猛烈な寒波が襲ってきました。青森大学雪国環境研究所の杉見良作氏は第五連隊の雪中行軍隊が通過した各地点の最高・最低気温を次のように推定しています。(2002年1月25日付東奥日報より)
http://www.toonippo.co.jp/rensai/ren2002/sechukougun/0125.html
平地と山間部で気象が違うことはある意味では常識ですが,青森市内と雪中行軍のルートとなった北八甲田山麓でも気象条件はまったく違うといってもよく,大休止中に天候が悪化した小峠付近までは青森市内とあまり変わらないものの,その先の大滝平付近からは様相が一変し,吹き上げる風と吹き降ろす風が複雑に絡み合い,気温もかなり低下します。さらに,のちに雪中行軍隊が迷いこむことになる鳴沢の峡谷は一段とひどく,雪の吹きだまりになっていました。
いずれにしても,比較的良好な天候下でも容易ではない雪中行軍であるのに,準備不足・装備不足・認識不足に加え,指揮系統の混乱,そのうえ猛烈な寒波に襲われては成功する道理はありませんでした。
(続く)
眞白き富士の根緑の江の島1910年1月23日,七里ヶ浜沖で第二開成中(現・逗子開成中高)のボートが転覆して生徒12人(1人は小学生)が全員死亡するという事故が起こりました。直接の原因は,行合川にそって吹き降ろしてくる強風帯に定員オーバーのボートが遭遇したためのようです。
仰ぎ見るも今は涙
歸らぬ十二の雄々しきみ霊に
捧げまつる胸と心
この「七里ヶ浜の哀歌」は,12人の生徒の追悼式で鎌倉女学校の生徒によって歌われた歌です。本来“富士の根”が正しく,“富士の嶺”はあとで誰かが勝手に書き換えたものだそうです。作詞は三角錫子・同校教諭ですが,実は当時女学生の間で歌われていた「夢の外」という歌の替え歌で,さらに「夢の外」が聖歌623番「いつかは知らねど」の替え歌でした。
大正期にバイオリン演歌師たちによって広められ全国区の歌になりましたが,なぜか曲調は短調になっていました。短調にして歌ってみるとわかりますが,せっかくの美しいメロディーがいかにもお涙頂戴的な品のないメロディーになってしまいます。
ところで,σ(^^;)も最近まで知りませんでしたが,死亡した12人のうち6人は20歳以上の屈強な若者でした。この点,2番の
風も浪も小さき腕にはかなり現実にそぐいません。
力もつきはて呼ぶなは父母
しかもこの連中,今流にいえばかなりのDQNでした。一部ではこの若者たちは病気の女教師を見舞うためにボートを乗り出したということになっていますが,それは1935年公開の映画の作り話で,実際には“蛮食会”に供するための鳥を撃ちにいったのでした。しかも,ボートを使うときには2人の教師の許可を得なければならない決まりだったのに,教師が2人とも外出していることをいいことに無断で漕ぎ出したのでした。さらに,12人というのはかなりの定員オーバーでした(定員は7人)。
蛮食会というのは,一種の闇鍋パーティーみたいなもので,アヤシげな肉――そう,さしずめ吉野家の狂牛丼用の牛肉など米国産の生ゴミ牛肉を鍋で煮て食するようなパーティーだったそうです。
ところで,若者たちが乗ったボートはもともとは巡洋艦「松島」に装備されていた端艇でした。
松島は日清戦争時の連合艦隊の旗艦でしたが,船体に比べて装備が重すぎ,黄海海戦のときは清の艦隊の目標になっただけで攻撃には役に立たなかったそうです。しかも松島はかなりの損傷を受けて旗艦機能を喪失したため,お荷物となって,敗走する清の艦隊を追撃することができなくなりました。さらにはのちに少尉候補生を乗せた遠洋航海で寄港した台湾で爆発事故を起こし,乗組員370人中207人が死亡しました。
ちなみに,黄海海戦といえば思い出す「♪まだ沈まずや定遠は」で有名(?)な軍歌「勇敢なる水兵」。舞台はこの松島艦上です。
※参考文献:上田信道『謎とき 名作童謡の誕生』(平凡社新書)
1963年1月23日16時05分,急行「越路」が新潟駅を発車していきました。このときはまさか上野駅まで112時間もかかる道中になるとは誰も思ってはいなかったでしょう。
当時の新聞からこの列車の足取りを拾いながら,三八豪雪の一端を見てみることにしましょう。はっきりした資料に基づいているわけではないので,不明な点が多いです。
●1月23日16時05分 新潟駅を出発
大雪警報をついての発車でした。定刻に出たかどうかはわかりませんが,多少遅れたとしてもこれからの遅れに比べれば大した問題ではないでしょう。
新潟県下越地方は19時半ごろから最大瞬間風速30m/sの暴風雪となりました。この影響で新潟-長岡間の信越線などが22時過ぎまでストップ,その後ようすを見ながらゆっくり運転を再開しましたが,「越路」は23時ごろ保内駅構内で雪の吹きだまりに突っ込んで身動きが取れなくなり,そのまま保内駅で滞留することになります。
一方,前日から18年ぶりという大雪に見舞われていた北陸本線は,夜から全面運休となりました。
●1月24日 押切駅で立ち往生
どうやって押切駅まで動いたのか不明です。
暖房が切れたために列車内に火鉢が差し入れられましたが,乗客約400人のうち311人が一酸化炭素による中毒症状を起こしました。うち重症だった3人がラッセル車で長岡まで運ばれて入院しました。のちに乗客のひとりは「(国鉄は火鉢を差し入れてくれたが)おかげで中毒が起こった。ほんとは暖房に必要な水を補給すべきだった。その機会もあったのに」と語っています。
12時30分ごろ,福井県勝山市の横倉地区で大規模な表層なだれ(俗に“アワ”とよばれます)が発生,住宅4棟と公民館,神社などをのみ込み,16人が犠牲になりました。
このころから富山・石川・福井の北陸3県では,外部との交通が途絶して孤立状態となり,物資が不足する市町村が出はじめました。
一方,最低湿度6%とカラカラに乾いた東京の深川で早朝,ガス漏れによる爆発・火災が起こり,一家6人が焼死(爆死?),17棟が全焼しました。
また,鹿児島では前夜からの積雪が17cmに達しました。
●1月25日~27日 長岡駅から動けず
どうやって押切駅から長岡駅まで動いたのか不明です。
開通のめどが立たないため,25日の夜から乗客は近所の旅館に泊まることになりましたが,その扱いたるや「囚人の収容所なみの扱い」(ある乗客)。
27日の朝,“除雪協力隊”を乗せた“救援列車”が上野から東北本線・磐越西線経由で長岡駅に到着しました。レールにこびりついた雪はラッセル車を脱線させるほどかたまっていて,ツルハシでたたき割るしか方法がなかったということです。
一方,26日14時30分ごろ,福井県美山村芦見地区で下校中の児童8人と引率の教師1人が“アワ”に巻き込まれて生き埋めになり,児童3人と教師が死亡するという事故が起こりました。この前後にアワ=表層なだれが各地で頻発しています。
●1月28日01時45分 長岡駅を発車
自衛隊,除雪協力隊など約1000人を動員して,27日夜にようやく開通のめどが立ちました。
当初は27日22時過ぎに発車の予定でしたが,除雪作業が長引いたため,28日01時45分,ラッセル車2台を先導させての強行発車に踏み切りました。
●1月28日08時29分 上野駅に到着
106時間21分遅れで,やっと上野駅に到着しました。もちろん国鉄史上第1位の遅れの記録です。屋根には雪が1m以上積もり,連結器や車輪のまわりには氷が貼りつき,悪戦苦闘ぶりを物語っていました。雪に閉じこめられていたときの乗客は約350人でしたが,到着したときにはなぜか650人になっていました。
小出駅に足止めされていた下り急行「佐渡」も,08時03分に88時間48分遅れで新潟駅に到着しました。
このようにしてある意味で三八豪雪の象徴となった「越路」と「佐渡」は多くの人の協力によって終着駅にたどり着きましたが,もちろん三八豪雪はこれで終わったわけではありません。
今日1月21日は「バカは社会の迷惑の日」(笑)
ってσ(^^;)が勝手にそうよんでいるだけで,日本記念日協会とやらに登録されている日でもなんでもありません。
きっかけは次の事件です。
2003/01/21 16:00ごろ, 市立中3年生♂が川崎市川崎区の古書店で漫画本6冊万引きして外に持ち出したところを店長に呼び止められ,店員が110番。 万引き中3生は駆けつけた川崎署員に連絡先などを話さず,任意同行を求められた際,トンズラしようとし, 遮断機の下をくぐって踏切にはいり,特急電車(快速特急かも)にはねられ死亡
この古書店の店長は当たり前のことをしただけなのに,事件のあと「人殺し!!」などと中傷するバカが現われ,
その後紆余曲折はあるものの,閉店に追い込まれることになります。
この万引き中学生がDQNならその父親も輪をかけたDQNで,テレビのインタビューに次のように答えたそうです
(直接見たわけではないので多少違うかもしれません)。「廃業していただければ本当にうれしい。あそこを通るのはつらいし。本屋さんの中で
(あの子は)どんなつらい思いをしたか。きっと一生懸命,謝ったと思うんですよ」
名前も連絡先もいわず,「自転車で来たので,鍵を掛けさせてほしい」などとウソをほざき,隙を見てトンズラしようとするような態度が
“一生懸命,謝った”態度なのか? そもそも万引きは窃盗というれっきとした犯罪であり,謝ればすむというものではないはず。
犯罪を犯したのだから“つらい”思いをするのはある意味当たり前。結果的に本当につらい思いをしたのは古書店の店長のほうでしょうし,
轢いてしまった京浜急行の運転士もつらい思いをしたに違いありません。
いずれにしても,DQN中学生が万引きしたりトンズラしようとしたりしなかったらこんな事件に発展することはなかったわけで,
まったくもってバカは社会の迷惑です。「人殺し!!」などと中傷するバカも社会の迷惑です。
元暦元年一月二十日(ユリウス暦で1184年3月4日),ところは宇治川仮設競馬場。
雪解け水で増水している宇治川を前にして出走取消または競走除外となる馬が続出,結局,佐々木四郎高綱が騎乗する生喰《いけづき》
と梶原源太景季が騎乗する麿墨《するすみ》のマッチレースになりました。
天候は晴,馬場(?)コンディションは稍急流。
好レースが繰り広げられると予想されましたが,高綱の「やとの梶原殿,此河はやうある河ぞ,上も下も早くて馬の足いく程ならず,
はるびのびたるとみゆるぞ,しめよかし」のひとことで景季が腹帯を締め直している間にスタートが切られてしまったため,
レースは生喰が主導権を握る形で展開しました。途中,麿墨が川の流れに脚を取られて下流側にヨレるというアクシデントも手伝い,
生喰の圧勝に終わりました。
いちおう
宇治川の先陣競走は,発走時,麿墨号が大きく出遅れた件について審議いたします。……
との審議放送が流れましたが,通過順どおりに確定しました。
勝ち馬の生喰の血統はというと……まったく不明(笑)
どう間違ってもサラブレッドやアングロアラブでないことだけは確かでしょう(笑)
体高は約145cmと伝わっています。
これはいまのサラブレッドの160~170cmと比べるとかなり小さくてポニーといわれるサイズですが,
当時としてはこれでも大型馬だったそうです。
写真は宇治川先陣之碑。
前回は1992年2月1日を中心に取り上げましたが,今回は,それ以外の入試が雪で大きな影響を受けた日について広く浅く紹介します。ただし,例によって首都圏の私立中学・高校入試に限らせていただきます。大雑把にいって,中学入試は2月1~3日,高校入試(当時)は2月18~20日です。
●1984年2月1日
とにかくこの冬は関東地方で雪が降りまくり,東京の冬季の雪日数は史上最多の29日に達しました(気象庁天気相談所調べ)。
西日本に大雪を降らせた南岸低気圧が1月31日午後,関東地方に年が明けてから3度目の大雪を降らせました。東京の最深積雪は16cmでした。このため,首都圏の鉄道は計317本が運休,また東海道・山陽新幹線が連日16日間の遅れとなり,最大で6時間のワースト記録を更新しました。
明けて2月1日は朝からの青空。交通機関の乱れなど雪の後遺症はほとんどなく,1日に試験を予定していた東京の私立中91校のうち4校が試験開始を遅らせた程度でした。
ただし,中には次のようなこともありました。女子中最難関のOIN中を目指していた受験生(Aさんとしておきます)の母親が交通機関の混乱を心配し,都内のホテルに泊まらせたまではよかったのですが,Aさんは不安と緊張と環境の変化のためにほとんど寝ることができず,まともに試験を受けることができなかったそうです。このあたり,降雪や,雪による交通の混乱は予想できたとしても,どのように対処したらいいのか,難しいところですね。
なお,この話は本人から直接聞いた話です。
●1984年2月18日
この年は中学入試に加えて高校入試も雪による影響を受けました。
17~18日にかけて南岸低気圧が通過,首都圏ではこの冬5度目の大雪になりました。東京では17日に降りはじめた雪が18日早朝まで降り続き,積雪は24cmに達しました。
例によって雪に弱い首都圏の国鉄(当時),各地でポイント凍結や車両故障が起こり,国電(当時)13線区などで運休や大幅な遅れを出しましたが,この日は土曜日だったため,大混乱は起こりませんでした。しかし,18日に試験を予定していた都内の私立高校154校のうち44校が,試験時間を30分~1 時間繰り下げるなどの措置をとりました。
●1986年2月19日
この日のことはよくおぼえています。18日,昼ごろからぱらついていた雪が,15時すぎ某国立高校の合格発表を見にいった帰りには本降りとなっていました。σ(^^;)は比較的方向感覚はいいほうなのですが,雪が降るとなぜか機能を停止します。最寄りの駅の遠かったこと遠かったこと……(^^;) どこからともなく♪チャララーン,チャラララーン,チャラチャー,チャーラララーンの音楽が聞こえ,思わず「天は我々を見放した……」と叫びたくなりました(笑) 我々っていってもひとりなんですけどね(笑)
雪は翌19日の午前中まで降り続き,東京18cm,横浜37cm,八王子31cmなどの最深積雪を観測しました。
この日は当時の高校入試の2日目ですが,入試を予定していた都内の78校のうち1校が延期,33校が開始時間を10分~1時間繰り下げる措置をとりました。
バスが止まってしまった町田市の山の上にある高校へは,何百何千という受験生の列が延々と続いていたそうです。どこからともなく♪チャララーン,チャラララーン,チャラチャー,チャーラララーンの音楽が流れ,あの叫びが聞こえてきそう……「天は我々を見放した……。こうなったら露営地に引き返し,先に死んでいった者と一緒に,全員が死のうではないか……」(死んでどうするって)
どうでもいいですが,♪チャララーン,チャラララーン,チャラチャー,チャーラララーンは映画「八甲田山」のテーマです(笑) 詳しくはチャララーン,チャラララーン,チャラチャー,チャーラララーン | 能天気Express~新世界版~をどうぞ。
●1990年2月1日
なぜかこの日のことはまったく記憶にありません。
東京では30日の夜から降りはじめた断続的な雨が,31日未明から雪に変わりました。そして1日未明から本格的に降り出し,最深積雪は 11cm に達しました。
この日入試を行なった都内の私立中74校のうち,16校が試験開始時刻を繰り下げる措置をとりました。
●1970年2月1日(おまけ)
このブログでもいずれ紹介するであろう「昭和45年1月低気圧」がちょうど2月1日にぶつかったため,雪ではないにしても中学入試になんらかの影響があったのでは……と思い,新聞などを調べてみたところ,当時は学園紛争などという今となっては意味不明な嵐が吹き荒れていたためか,1行も記事を見つけることができませんでした。
※前回に引き続きこの文章は以前どっかに書いたほとんどそのまんまです(笑)
明日,明後日,大学入試センター試験が行なわれます。首都圏では去年のセンター試験は雪に見舞われました。
ひとくちに入試といってもいろいろあり,幼稚園や小学校の“お受験”は10月くらいにはじまるらしいですが,それにはまったく興味がありません。東京都下に住んでいる元“受験屋”の感覚では,2月1日の中学入試が入試シーズンのはじまりです。そして2月1~3日の中学入試が第1のピーク,2月18~20日の私立高校が第2のピークでした。現在はσ(^^;)が受験屋だったころよりも高校入試が早くなっているので,第2のピークは2月10日~12日ごろでしょうか。いずれにしても,暦の上の話はともかく,気候的には冬のまっただ中に入試は行なわれます。
一方で,東京で雪が降ることがもっとも多い月は2月です。また,2月には最深積雪が10cm以上の日数が0.4日あります。ということは平均すると,2~3年に1日は10cm以上積もる日があるということです。そして10年に1日は20cm以上積もることがあります。
東京で10cm以上の積雪があるとどういう事態になるか……電車が止まる,首都高は全線通行止めになる,ノーマルタイヤの車のノロノロ運転やスリップ事故で道路は渋滞する,それだけならまだしも自力走行が不能になって路上に放置するバカがあらわれる,人は滑ってころぶ……。たかが10数cm程度の雪でのこのありさまは,雪の多い地方に住んでいる人にはおよそデキの悪いドタバタ喜劇にしか見えないと思います。
そしてこのような時期に入試が行なわれるわけです。当然,雪が降ったら上へ下への大騒ぎです。
実際,中学入試,私立高校入試が雪にたたられたことが過去に何度かあります。大昔のことはおいて最近20年程度に限ると,1984年,1986年,1990年,1992年です。ここ10年間はありません。1994年2月12日に25年ぶりとなる最深積雪23cmを観測していますが,当時の私立高校の入試日程からはズレていました(ただし,国立高校の入試はこの前後だったはず)。もちろん大学入試は予定されていたはずで,かなりの影響があったと思いますが,大学入試についてはよくわからないので(というか,興味がなかったので)ここでは触れません。
以下では,もっとも印象に残っている1992年の東京での状況について書き,雪が入試に与える影響の一端を紹介します。
●1992年2月1日
1992年1月31日09時に四国沖にあった1004mbの低気圧が猛発達しながら東進し,2月1日09時に房総沖に達したときには980mbにまで発達しました。この低気圧により各地で大雪・強風となりました。
気象庁の観測原簿によると,東京(大手町)では31日の02時55分に降りはじめた雨が断続的に降り続き,14時20分に凍雨,14時45分にみぞれ,18時30分に雪となり,1日の09時50分まで降り続きました。そして07時に17cmの最深積雪を観測しています。一方,低気圧の接近とともに風も強まり,04時から05時にかけて最大風速12.8m/s,最大瞬間風速26.4m/sが観測されています。
同じ東京都内でも多摩方面では雪の降りはじめは早く,当時σ(^^;)が常連だったパソコン通信のとあるローカルネットで31日の13時59分に「雪だ~」という書き込みがあるので,そのころには降りはじめていたと思われます。
ちなみに,σ(^^;)はその日の22時12分に次のような書き込みをしています。
雪はかまわないけど,明日から中学入試がはじまるんで,受験生や家族は大変でしょうね。
そういえば,2月1日は2年に1回ぐらいの割りで雪に見舞われているような気がする。
いくらなんでも2月1日が2年に1回雪ということは当時もなかったのですが,2年前の1990年の記憶もあったのでしょう。
なお,委託観測による1日09時の積雪深は,練馬22cm,世田谷21cm,青梅と新木場14cm,八王子11cm,府中8cmなど。また,横浜の最深積雪は15cmでした。
この大雪で交通機関は大きな影響を受けました。東武伊勢崎線,京成線が始発から間もなく全面運休となり,JRも中央線,山手線などが時間運休したほか,他の路線でもダイヤが大幅に乱れました。ただ,この日は土曜日だったので,大きな混乱は少なかったようです。道路でも,首都高速が例によって一時交通止めになったのをはじめ,あちこちでスリップ事故が相次ぎました。
さて,この日は生徒募集している東京都内の159校の私立中学のうち,73校が入試を予定していました。ところがこの交通機関の乱れのあおりをモロに受けて,予定通り入試を行なったのは6校に過ぎず,入試を延期させたのが3校,他のほとんどの中学校でも試験開始時刻を遅らせるなどの措置をとりました。
例えば,文京区にあるA学園中(女子中)では,試験開始の8時20分になっても受験生の4分の1が間に合わなかったため,開始を急遽30分繰り下げました。また,港区にあるA中学(男子中)では,9時の開始時刻を10時に繰り下げ,これにも間に合わなかった約10人を別室で受験させました。
ところで,先に「入試を延期させたのが3校云々」と書きましたが,そのうちの1校は御三家筆頭の開成中でした(ちなみに残り2校のうちの1校はプロテスタント系のミッション女子中で,掟破りの日曜入試になりました)。ただし,当時は開成中の入試日は1日と2日の2日間にわたって行なわれており,正確にいえば1日目が中止になっただけで,延期ではありませんでした。
しかし,これは中学入試史上,特筆すべきできごとでした。雪のせいでもなんでも,とにかく開成中が「2日校」になってしまったのです。ということは,あらかじめ願書を提出しておけば,「御三家」を2校受けられたわけです。
「女子御三家」は,1日が日曜日のときは長老会系のプロテスタント校である女子学院が「2日校」になるので2校受けられる年がありますが,「♂御三家」を2校受けられた年が他にあったかどうか,σ(^^;)は寡聞にして知りません。
ついでですが,雪による混乱に輪をかけるように翌日の2日未明,東京で震度5(当時の震度階級)の地震が発生しました。被害は大したことはありませんでしたが,またもや交通機関が影響を受けました。このため,「2日校」になった開成中が試験開始を30分繰り下げたほか,面接を中止した中学校もありました。
●大雪のパターン
東京に大雪が降るパターンはだいたい決まっており,高気圧が北日本方面に張り出しているときに太平洋岸を低気圧が発達しながら通る場合です。
このような低気圧については,現在では発生の初期の段階からかなり正確に予報できます。そして大雪や暴風などによる災害が予想されるときは,「低気圧に関する全般気象情報」などという形で気象庁から発表され,ニュースでも報道されます(マスコミが持ち上げた青年虚業家が逮捕されたり,空爆大好きのアメリカがどこかにバクダンを落とした,というような大騒ぎがなければ)。
ただ,問題は雨になるか雪になるかで社会に与える影響が大きく違うにもかかわらず,それが直前になってもわからないことが多い点です。これは簡単にいうと,雪になるか雨になるかの判断が難しいうえに,関東南部の降雪が特異な現象で(珍しい現象という意味ではありません),他の地域では雪にならない条件下でも雪になることがあるからです。
入試日に雪が降りそうだという情報を耳にしたら,実際に降ることを覚悟して準備したほうがいいでしょう。もし降らなかったら運がよかったとσ(^^;)に感謝しましょう(爆)
あと,最後にひとつだけ。雪の多い地方から都内の,あるいは周辺の大学などを受けに来る受験生もいると思いますが,自分は雪に慣れているから大丈夫だよん,などと思ってはダメです。確かに自分は大丈夫で,入試でスベることはあっても雪で滑って転ぶことはないかもしれませんが((^_^;)\ヲイヲイ),まわりがこのとおりですから,否応なしに巻き込まれる可能性が大です。とくに交通手段がメチャメチャになってはどうしようもありません。得意のスキーで移動するわけにもいきません。
※この文章は以前どっかに書いたほとんどそのまんまです(笑)
麻布の質屋の娘・梅乃はお参りに行った本郷丸山の本妙寺でイケメン野郎に一目惚れ,そのイケメン野郎が着ていたのと同じ模様の振袖をつくらせて“夫婦遊び”をしたりしていましたが,ついに恋い焦がれて死んでしまいました。両親は本妙寺で葬儀を行ない,納棺の際その振袖を棺にかけてやりました。
お寺では慣習に従いその振袖を古着屋に売りましたが,翌年の同じ日,その振袖がかけられた棺がお寺に運ばれてきました。お寺では慣習に従いその振袖を古着屋に売りましたが,またまた翌年の同じ日,その振袖がかけられた棺がお寺に運ばれてきました。
お寺でもいくらなんでも気味が悪くなったのか,明暦三年正月十八日(1657年3月2日),娘たちの親を施主として施餓鬼を行ないました。そして供養のために振袖に火をつけたところ,一陣の怪風とともに火のついた振袖が舞い上がりました。火はみるみるうちに燃え広がり,江戸市中の6割を焼失し,10万人以上の犠牲者を出すという大火災になりました。
↑というのが「明暦の大火」,あるいは「振袖火事」に関するいい伝えで,江戸時代の怖い話を扱った本などにときどきのっています(文献によって多少異なっていたりします)。ただ,記録によるとこの日は朝から北西の風が吹き荒れており,こんな日に法要とはいえ振袖に火をつけるかという疑問があり,また,お寺で一目惚れするというのは八百屋お七の話に似通っており,おそらくお七の話を真似てつくられたのだろう……というのが定説になっています。そういえば,必殺シリーズのひとつ「必殺仕事人・激突」に「八百屋お七の振袖」というのがありました(1991年10月29日放送)。
いい伝えはともかくして,この冬シーズンの江戸では,十一月以来一滴の雨も降らない乾燥状態が続いていて,各地の井戸も涸れていました。そんな中,正月十八日の午後1時ごろ本妙寺から出火,折りからの北西風に煽られて南東方向の湯島,神田方面に燃え広がり,湯島天神,神田明神を焼き,駿河台の大名屋敷を焼き尽くし,浅草から隅田川を越えて牛島新田(現在の墨田区)まで達し,翌十九日午前2時ごろにどうにか鎮火しました。ところがホッとした矢先のその十九日の午前11時ごろ,新鷹匠町(現在の文京区小石川)から再び出火,風向きが前日と変わったのか今度は東南東~南に燃え広がり,正午ごろ江戸城の天守閣が炎上,さらに増上寺付近まで焼いて,翌二十日の朝やっと鎮火しました。火はおさまりましたがこの夜から大雪となり(南岸低気圧によるものか),凍死者が続出しました。
出火元については実は本妙寺ではなく,となりの老中・阿部忠秋の下屋敷だったという話もあり,さらには浪人放火説,果ては老中・松平伊豆守黒幕説もあり,謎に包まれています。σ(^^;)的には阿部忠秋下屋敷出火説がしっくりします。
とはいうものの,かりに新しい証拠が見つかったとしても,もうとっくの昔に時効になっていますから,再捜査が行なわれることはないでしょう。
この時代の江戸に火災調査官紅蓮次郎がいれば,ちゃんと解決していたかもしれません。
火災現場は一期一会だ。はいつくばって灰の中から掘り起こせ。真実は必ず灰の中にある。
って土曜ワイド劇場の見過ぎですね……(^^;)
写真は,本妙寺跡付近(と思われます)。ちなみに,本妙寺はいまは巣鴨に移転しています。
気象庁 16日03時23分発表 ●発震時刻: 1月16日03時18分 ●震源: 静岡県東部 北緯35.0度 東経138.9度 深さ170km ●規模: M5.7 ●震度3以上が観測された地域 震度3 茨城県北部 栃木県南部 千葉県北西部 千葉県南部 東京都23区 神奈川県東部 神奈川県西部 ●震度3以上の市町村 震度3 水戸市 常陸大宮市 宇都宮市 茂木町 高根沢町 市原市 木更津市 君津市 富津市 東京千代田区 横浜神奈川区 横浜西区 横浜中区 厚木市 この地震による津波の心配はありません。
尾崎紅葉作のキンイロヨルマタ……ではなくて『金色夜叉』の有名な場面――とはいっても『金色夜叉』自体いまではかなり忘れられていますが(σ(^^;)も『金色夜叉』を通しで読んだことはないです),貫一が
吁《ああ》、宮《みい》さんかうして二人が一処に居るのも今夜ぎりだ。お前が僕の介抱をしてくれるのも今夜ぎり、僕がお前に物を言ふのも今夜ぎりだよ。一月の十七日、宮さん、善く覚えてお置き。来年の今月今夜は、貫一は何処《どこ》でこの月を見るのだか! 再来年《さらいねん》の今月今夜……十年|後《のち》の今月今夜……一生を通して僕は今月今夜を忘れん、忘れるものか、死んでも僕は忘れんよ! 可いか、宮さん、一月の十七日だ。来年の今月今夜になつたならば、僕の涙で必ず月は曇らして見せるから、月が……月が……月が……曇つたらば、宮さん、貫一は何処かでお前を恨んで、今夜のやうに泣いてゐると思つてくれ
といって“不倫”をはたらいたお宮を足蹴にしたのは1月17日のことです。
この1月17日ですが,
打霞《うちかす》みたる空ながら、月の色の匂滴《にほひこぼ》るるやうにして、微白《ほのじろ》き海は縹渺《ひようびよう》として限を知らず、譬《たと》へば無邪気なる夢を敷けるに似たり。寄せては返す波の音も眠《ねむ》げに怠りて、吹来る風は人を酔はしめんとす。打連れてこの浜辺を逍遙《しようよう》せるは貫一と宮となりけり。
などと春っぽい描写があるので,旧暦であることは明らかです(したがってこのブログ的な表記では“一月十七日”)。これがもし現在の暦(グレゴリオ暦)の日付なら,次の年の今月今夜,貫一が「ようし,僕の涙で月を曇らしてやるぞ……」と手ぐすね引いて待っていても,次の日(18日)の未明まで月は昇ってこないという,なんともおマヌケな話になってしまいます。
例えば,『金色夜叉』の新聞連載開始は1897年なので,1897年1月17日のお月さまを調べると,月齢は13.9,月の出は15時08分,南中は22時48分で,大昔turbo pascalでつくった自前のプログラムで調べたので多少の誤差があるにしても,熱海の海岸を散歩するにはいい月夜だったかもしれません。ところが翌年の1898年1月17日は月齢24.3で,11時36分に月はすでに沈んでおり,次の日(18日)の02時32分まで昇ってきません。
はたして貫一さんは無事に月を曇らすことができたのでしょうか……。
ちなみに,日本で太陽暦が採用されたのは『金色夜叉』の連載がはじまる20数年前の1873年でした。この時期になっても旧暦的な場面設定がされているということは,知識人の間でも“新暦”は普及していなかったんでしょうか……。
今年の一月十七日は3月6日です。
※『金色夜叉』の引用には青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)のファイルを使わせていただきました。ありがとうございました。
1885年の今日,東シベリアのベルホヤンスクで-67.8℃が観測されました(ただし,この日付はロシア暦のもの。グレゴリオ暦では2月5日らしいが未確認)。当時としては地球上で観測された最低気温の記録でした。
当時,もちろん南極があることは知られていましたが,南極でもここまでは寒くないだろうと考えられていました。
現在の地球の最低気温は1983年7月21日に南極のヴォストーク基地で観測された-89.2℃,北半球の最低気温は1933年2月6日に同じく東シベリアのオイミャコンで観測された-71.2℃とされています。
しかし,これはヴォストーク基地,オイミャコンがそれぞれ南半球,北半球でもっとも寒いことを意味するものではありません。温度計が設置されていない,あるいは常時気象観測が行なわれていない場所でもっと気温が低いところが存在する可能性が否定できない(というよりむしろ高い)からです。
第25回日経新春杯
◎◎◎◎◎ 1 1 テンポイント 66.5 鹿戸 ▲×注○× 2 2 エリモジョージ 60 池添 × △ 3 3 ジンクエイト 52 清水英 △△△△▲ 4 4 タニノチエスター 58 久保敏 5 5 マチカネライコー 51 柴田光 ×× 6 6 ビクトリアシチー 50.5 福永洋 × 7 7 ヤマニンバリメラ 52 池江 8 8 スリーファイヤー 49 小谷内 ○○○▲○ 8 9 ホースメンホープ 57 小野
印はスポニチ(大阪版)のものです。
スポニチ(大阪版)には
世界へのステップ台! 負けられぬ
走れTポイント
酷量66・5キロに挑戦
などの見出しが第1面に躍っています。
雪の降る街をという古典的な名曲があります。
この歌は,もともとはNHKの連続放送劇「えり子と共に」の挿入歌としてラジオのスピーカーから流れた曲でした。「えり子と共に」については以前このブログにも書いたことがありますが,1949年10月5日から1952年4月3日まで放送された連続ラジオドラマです。ちなみに,あと番組として1952年4月10日から放送されたのが,女湯が空になったという伝説をもつ,忘却とは忘れ去ることなりのあの「君の名は」です。
「えり子と共に」がどのようなストーリーだったのか,ほとんどわかりません。最終回の最後の部分だけ何かの番組で聞いたことがありますが,えり子さんが結婚するところで終わっていました。「これからどういう生活になるのか,わかりません」というようなセリフがありました。
さて,「雪の降る街を」ですが,1952年1月,「えり子と共に」のリハーサル後にどうやら時間が余りそうだということで,急遽つくられた曲だそうです。どのような場面で流れたのかはわかりませんし,誰が歌ったのかもわかりません。
そういうわけで,はじめは1番の歌詞しかありませんでした。
ところが,急造の曲にしては意外に好評だったため,2番,3番をつけ足して,シャンソン歌手の高英男さんが歌い,1953年2月にNHKの「ラジオ歌謡」として放送されました。
「雪の降る街を」の歌詞は,「えり子と共に」の原作者でもある作詞者の内村直也さんがかつて訪れたことのあるいくつかの雪の降る街をイメージしてつくったもので,特定のモデルはないそうです。
作曲者の中田喜直さんは山形県鶴岡市の出身で,鶴岡市は「雪の降る街を」の“発祥の地”といわれることがありますが,発祥の地というのはハチ公が秋田犬だというようなもので(発祥の地はあくまでNHKのスタジオ(笑)),せいぜい“発想の地”でしょう。実際,鶴岡市のホームページでは“発想の地”となっています。
高英男さんはサハリン生まれ,11歳までサハリンに住んでいたそうで,雪のサハリンのイメージを重ねて歌ったと,いつだったかラジオで話していました。
去年の冬を例に挙げるまでもなく,なかなか当たらないのが長期予報です。統計の取りかたによりますが的中率は30%台といわれています。
一方で,とくに夏季の天候をできるだけ早い時期に知りたいという需要は昔からありました。その結果として編み出されたのが昔流の“長期予報”です。しかし根拠があるわけではないので,一種の占いです。「寒四郎」と「寒九」も,ある特定の日の天気をもとにした昔流の“長期予報”です。
寒の入り(=小寒)から数えて4日目は「寒四郎」とよばれます。麦作の厄日とされており,この日の天候によって収穫が影響されるといわれていました。この日が晴れだと豊作だが,雨や雪だと凶作になるということのようです。ただ,いろんなバリエーションがあり,「彼岸(ひがん)太郎,八専(はつせん)次郎,土用(どよう)三郎,寒(かん)四郎」と十把(四把?)ひとからげでよばれることが多いようです。
「彼岸」はこの中ではいちばん有名で,春分・秋分を中日とする7日間(ただしここでは春のほう)です。
「八専」は暦の本によると,“日の干支で壬子から癸亥までの12日間のうち,五行の同気が重なる日”で,60日ごとにあらわれますが,ここでは時期から考えて3月ごろのことで,今年は03/19から03/30のうち,03/20,03/23,03/25,03/29を除く8日です。
「土用」はもちろんここでは夏の土用ではなくいわゆる冬土用で,今年は01/17から02/03までです。
以上から,この“長期予報”を今年にあてはめると,01/09,01/19,03/21,03/18の天気で今年の豊作,凶作が決まるということです。
ただ,「彼岸太郎,八専次郎,土用三郎,寒四郎」はその年の作柄の“長期予報”ではなく,それぞれ彼岸,八専,(冬)土用,寒の間の天気を占うとする地方もあり,そうなると“長期予報”というよりは“週間予報”に近い感じです。
また,寒の入りから9日目は「寒九」とよぱれます。この日は寒四郎とは逆で,この日の雨は「寒九の雨」とよばれ,豊作の兆しとされていました。
ところで,「北風小僧の寒太郎」でおなじみの“寒太郎”は,寒四郎や寒九と同じようなものだとすれば寒の入りから数えて1日目,要するに数えるまでもなく小寒のことですが,この日の天気から占う“長期予報”はとくにないようです。
ただ,作詞者に意図があったかどうかはともかく,この歌は寒太郎=小寒から暦の上の寒がはじまるということを擬人的によく表わしている歌だと思います。「みんなのうた」では堺正章さんが歌っていましたが,田中星司さんの歌のほうがσ(^^;)は好きでした。
気象庁 9日13時27分発表 発震時刻: 1月9日13時18分 震源: 茨城県南部 北緯36.1度 東経139.8度 深さ80km 規模: M4.3 各地域の震度 震度3 埼玉県北部 東京都23区 震度2 茨城県北部 茨城県南部 栃木県南部 群馬県北部 群馬県南部 埼玉県南部 埼玉県秩父 東京都多摩東部 東京都多摩西部 神奈川県東部 神奈川県西部 山梨県東部・富士五湖 震度1 福島県中通り 栃木県北部 千葉県北東部 千葉県北西部 千葉県南部 伊豆大島 山梨県中・西部 長野県中部 静岡県伊豆 静岡県東部 各市町村の震度 震度3 行田市 久喜市 大利根町 東京杉並区 この地震による津波の心配はありません。 震度を訂正する。
震度2以下の市町村は省略しました。
この時期,夜のテレビ番組はNHKを除けば見たくもないようなバラエティー番組ばかりですが,
以前は通常番組が放送されたこともありました。
例えば,月曜日19時の番組「ワイルド7」は,
1973年1月1日月曜日19時から通常どおり放送されています。しかもそのサブタイトルが正月早々
「両国死す!」(笑)
「ワイルド7」は1週間前の12月25日のクリスマスにももちろん放送されています。サブタイトルは「悪魔のライダー」。
街頭募金中のあるキリスト教のグループ(しかも実在の団体名のたすきをかけている)
を元モトクロスチャンピオンのライダーがライフルで乱射するというおよそクリスマスにはふさわしくない内容でした。しかも,
教会がアジトだったり……。ちなみに,この悪魔のライダーは200人以上を射殺したことになっています。
「ワイルド7」の主題歌は「ワイルドセブン」で,σ(^^;)の好きな歌なんですが,なぜかカラオケになくて残念です。
どこかで拾ったMIDIファイルをコンバートして着信メロディーにしていたりします(笑) 「ワイルド7」のエンディングテーマは
「つむじかぜ」。これからすると,「ワイルド7」はまんざらお天気に無関係ではありません(笑)