お天気,暦,競馬などに関するメモです。以前発行していたメルマガ「能天気Express」のブログ版みたいなものです。

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2008年6月2日以前の記事は他のブログからインポートしたため,画像へのリンクが切れています。画像の元データはどこかにあるはずですが,どれがどの画像だったのかわからなくなっているし,新たにサイズなどを変換するのが面倒なため,問い合わせをいただいても画像を復活させることはしません。まあ,大して貴重な画像があるわけではないですから(笑)
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19年前の今日です。

AD1988/10/30 F1日本GP(鈴鹿),A.セナが優勝し,初の世界チャンピオンに。また年間8勝の記録樹立

この件とこの日の気象状況については,1988年雨のF1日本GPをご覧ください。

さて,セナがはじめてワールドチャンピオンに輝いたのと同じ日,快晴に恵まれた東京競馬場では,当時の現役最強馬タマモクロスと新鋭オグリキャップとのはじめての対決となる第98回天皇賞が行なわれました。

時あたかも誰かさんが入院したために生じた自粛ブームの真っ最中。とくに天皇賞は名前が直接的すぎることもあって,広告キャンペーンは一切行なわれませんでした。にもかかわらず,折からの競馬ブームもあり,2頭の対戦はファンの注目を集め,東京競馬場には12万人の観客がつめかけ,馬券の売り上げもそれまでの秋天レコードを更新しました。

レースはよく知られているようにタマモクロスの快勝でした。

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1988年10月30日(日) 6回東京8日  天候: 晴   馬場状態: 良
10R  第98回天皇賞(秋)
3歳以上・オープン・G1(定量) (牡・牝)  芝 2000m   13頭立
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着枠 馬  馬名               性齢 騎手     斤量 タイム  3F  人体重     廐舎
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1 6  9  タマモクロス    牡 4 南井克巳  58  1.58.8 ----  2 452 (栗)小原伊佐
2 1  1  オグリキャップ   牡 3 河内洋   56  1.59.0 ----  1 492 (栗)瀬戸口勉
3 8 12  レジェンドテイオー 牡 5 郷原洋行  58  1.59.5 ----  9 524 (美)田村駿仁
4 4  5  ダイナアクトレス  牝 5 岡部幸雄  56  1.59.6 ----  3 480 (美)矢野進 
5 3  3  ランニングフリー  牡 5 菅原泰夫  58  1.59.8 ----  7 452 (美)本郷一彦
6 3  4  ボールドノースマン 牡 4 柴田政人  58  2.00.0 ----  4 470 (美)稗田研二
7 7 10  シリウスシンボリ  牡 6 加藤和宏  58  2.00.3 ----  5 518 (美)二本柳俊
8 7 11  カイラスアモン   牡 4 安田富男  58  2.00.3 ----  8 488 (美)松山吉三
9 5  8  マティリアル    牡 4 東信二   58  2.00.9 ----  6 490 (美)田中和夫
10 8 13  トウショウサミット 牡 6 柏崎正次  58  2.01.4 ---- 11 494 (美)奥平真治
11 5  7  ガルダン      牡 7 大塚栄三  58  2.01.4 ---- 13 468 (美)藤沢和雄
12 4  6  カシマキング    牡 8 的場均   58  2.01.4 ---- 10 456 (美)飯塚好次
13 2  2  パリスベンベ    牡 6 中舘英二  58  2.01.4 ---- 12 466 (栗)加藤敬二
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LAP :12.6-11.2-11.9-11.7-12.0-12.3-11.9-12.0-11.7-11.5
通過:35.7-47.4-59.4-71.7  上り:71.4-59.4-47.1-35.2  平均:1F:11.88 / 3F:35.64
単勝 9 \260    複勝 9 \130 / 1 \110 / 12 \370
枠連   1-6 \240 (1)

σ(^^;)は所用のため埼玉県の本庄まで出かけていたこともあってこのレースは見ていません。

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気象庁 30日09時51分発表
発生日時:
 10月30日09時46分
震源:
 大分県中部
 北緯33.3度
 東経131.5度
 深さごく浅い
規模:
 M3.2
各地域の震度
 震度3
  大分県中部
各市町村の震度
 震度3
  別府市
 震度1
  大分市
  由布市
この地震による津波の心配はありません。

今から46年前の1961年の今日,次のような事故が起こりました。

AD1961/10/26 大分で350mmを超える豪雨。大分交通別大線の電車が仏崎付近でがけ崩れに巻き込まれ,31人が死亡,36人が重軽傷

この日,大分では06時ごろから10mm/h,12時過ぎからは20mm/hの大雨となっていましたが,14時50分ごろ,大分市仏崎の大分交通仏崎のカーブで,乗客70数人を乗せた大分発亀川行き電車が通行中,線路横の高さ15メートルの崖が100平方メートルにわたって崩れ,電車は横倒しになって乗客は電車もろとも生き埋めになりました。この事故で31人が死亡,36人が重軽傷を負いました。

国鉄日豊本線が豪雨で不通になっていたのと,大雨のために下校時刻を切り上げた学校があったため,電車は満員に近い状態でした。

乗っていたK子(20)さんの話(1961年10月27日付毎日新聞朝刊)。

車内には立っている人も相当いました。私は運転手のすぐ右側に立っていました。海がたいへん荒れていたのでながめていたらゴーッという音がした。うしろを振り向いたらすでに電車はペチャンコ全く一瞬の出来事でした。運転手は非常に落着いていたようで乗客に「静かにして下さい。騒がないで下さい」としきりに呼びかけていましたが不気味なほど静かでしたので乗客は一瞬にして死亡,または気絶したのではないかと思います。

現在,この現場近くにお地蔵さまが立てられていたりして,ある種の心霊スポットになっているとかないとか。『日本縦断心霊スポット情報版』(日正堂,2000年)に次のようにあります。

ここ別大国道は、大分市と別府市の境目付近の国道10号線のことを言います。自然と海のきれいなマラソンコースとしても有名な道路ですが、実は地元の人の間では心霊スポットとしてもかなり有名なのです。別大国道沿いには電車が通っているのですが、30年以上前にこの場所で土砂崩れが起きて、そこを通っていた電車が巻き込まれたのです。

ここまでで内容がインチキだということがわかります。事故があった大分交通別大線は1972年に廃止になっているので,この本が発行されたころにはもちろん電車なんか通っていません。

聞くところによると,これはとあるサイトに投稿された文章をパクっただけのものらしいです。まあ,魔海の恐怖もそうですが,しょせん心霊スポットなんてものはなんの裏づけもなくウワサだけが広がっていくものでしょう。

その他の事件――。

AD1881/10/26 「OK牧場の決闘」

日本では“OK牧場”とよばれていますが,もともとはOK Corralで,牧場というよりは庭に近いそうです。まあ,日本と違って庭といっても広いんでしょうけれど。

AD1941/10/26 京都農林省賞典四歳呼馬競走(今の菊花賞)で,セントライト,日本競馬史上初の三冠馬に

当時の新聞などを見ると,“三冠”ということばが使われています。日本でも野球の三冠より古いことは確かなようです。

1989年10月26日,北山崎の「赤い壁」のてっぺんから“男”が転落するのを,観光船のアナウンス嬢が目撃しました。(内田康夫『琥珀の道殺人事件』)

小さな日記につづられた
小さな過去の事でした
私と彼との過去でした
忘れたはずの恋でした

小さな日記」という歌があります。1968年にフォー・セインツというフォークグループが出した,いかにも1960年代という感じのするきれいな曲です。1970年代にはやり出すいわゆるニューミュージックのわけのわからなさや,同じく1970年代に忽然と現われて消えた四畳半フォークの貧乏くささがありません。ちなみに,四畳半フォークの代表とされるかぐや姫の「神田川」の舞台は三畳ひと間の小さな下宿で,四畳半の広さすらないのは皮肉でしょうか(笑)

さて,「小さな日記」の3番――:

山に初雪ふる頃に
帰らぬ人となった彼
二度と笑わぬ彼の顔
二度と聞えぬ彼の声

彼はどうして死んだのでしょう?

詞では「山に初雪ふる頃に」つまり季節的には広い意味でちょうど今ごろ,「帰らぬ人となった彼」とあるだけで,山で死んだとは書いてありません。そこの交差点で飲酒運転の車に轢かれたのかも知れないし(当時は“交通戦争”ということばがありましたし),通り魔に襲われたのかもしれません。

でも,ふつうに考えれば,山に行って帰ってこなかったのでしょうね。もちろん家出ではなく,いわゆる“無言の帰宅”というやつ。おそらく“雪”で滑って転落死したか,天気の急変を読めずに軽装で行って凍死したかということなのでしょう。いずれにしても無謀登山による自業自得の死,ということになりますが……。だから彼とのことは思い出したくもない過去なのかも知れません(笑)

それともうひとつ。何をやっているときに小さな過去がつづられた「小さな日記」を見つけたのでしょう? おそらく押し入れか物置の奥の奥にしまってあったと思われるので,引っ越し作業の途中だったのでしょうか。

ちなみに,この曲を歌っていたフォー・セインツはのちにフォー・クローバーズという名前で「冬物語」を歌うことになります。同名のドラマ「冬物語」の主題歌ですが,「冬物語」をパクってつくられたのがあのキムチの悪臭漂うドラマ「冬のソナタ」です。

そののち,フォー・セインツのメンバーのひとり荒木生徳仮面ライダーストロンガーに変身して「天が呼ぶ,地が呼ぶ,風が呼ぶ。悪を倒せと俺を呼ぶ!」と叫んで日本の平和を守り,さらには津上明と名乗って特命捜査課の刑事となり,猛毒の炭疽菌のはいった風船を車に載せ,車ごとコンクリート壁に激突して爆発させるという壮絶な殉職を遂げることになります。

今日は旧暦で九月十三日。

旧暦で九月十三日の夜は十三夜とよばれ,豆や栗を供えて月を祭る習慣がありました。「豆名月」「栗名月」ともよばれます。いわゆる収穫祭のひとつで,中秋の名月である八月十五日の月見をしてこの日の月見をしないことを「片月見」といって忌む風習もありました。

また,中秋の名月や十三夜には,他人の畑の作物を無断で取ってもよいという,今から考えるとわけのわからない風習も各地にあったそうです。

中秋の名月の月見は中国伝来の行事ですが,十三夜の月祭りは日本固有の行事のようです。

5000円札のお姉さんこと樋口一葉の小説,その名も『十三夜』に

今宵は舊暦の十三夜,舊弊なれどお月見の眞似事に團子をこしらへてお月樣にお備へ申せし……

とあるので,明治のはじめにはすでに“旧弊”となっていた地方があったようです。

ところで,どうして満月でなくて「十三」夜なのでしょうか。とくに陰陽五行といったような崇高(?)な理論に基づいているわけではなく,どうもよくわからないようです。八月十五日が仲秋の名月,九月十三日が十三夜, 十月十日が十日夜《とおかんや》と,秋が深まるにしたがって昇ってくるのが時間的に早い月を対象としているので,気温が下がるから……というのが最も説得力があるように思えます。

その年の秋から冬にかけてはじめて吹く北風を「木枯らし1号」とよぶことがあります。

「木枯らし1号」を公式に発表しているのは東京(関東)と大阪(近畿)だけですが,基準が微妙に違います。“冬型の気圧配置のときにその年はじめて吹く(瞬間)風速8m/s以上の北~西北西の風”というのは共通なんですが,期間は関東では“10月半ばから11月末まで”,近畿では“おおむね二十四節気の霜降から冬至まで”となっています。今日は10月19日ですから,関東の基準では期間内ですが,近畿の基準では期間にはいっていません。ここ2,3日のうちに大阪でこのような風が吹いたとしても“フライング”となり,木枯らし1号とは認められません。

「木枯らし1号」の平年日は現在は発表されていません。要するに,発現しない年もあるし,平年日に科学的な根拠がないから,ということらしいです。春一番も同様です。

ただ,科学的な根拠云々を別にして平均をとると,だいたい二十四節気の立冬前後,11月7日ごろになるようです(私が計算したわけではありません)。

1号があれば当然2号,3号,……もあると考えるのがふつうの感覚でしょう(ヤッターマンには1号と2号しかいませんが)。ところが,木枯らしに関するかぎり,2号,3号,……は聞いたことがありません(ただし,あとに書くように“2号”については1回だけ何かの間違いで使われたと思われる例を見たことがあります)。かなり不自然です。考えるまでもなく,「木枯らし1号」なんてそもそもからしてセンスのかけらもないネーミングですよねえ。

「木枯らし1号」がいつごろから使われたのかわかりませんが,新聞記事の見出しとしての初登場は,σ(^^;)が調べた範囲では1975年11月11日付朝日新聞夕刊です。ただ,1973年11月2日付朝日新聞夕刊掲載の倉嶋厚さんのコラム「お天気衛星」のタイトルが「木枯らし1号」なので,このころにはすでにぼちぼち使われていたのでしょう。

今はなき月刊誌「気象」に掲載されていた「天気図日記」では意外に早く,1957年10月17日に登場しているように見えますが,「天気図集成」に収録する際に編集でつけ加えられたものかも知れません(未確認)。前年の1956年11月16日には「木枯らしNo.1」ということばも見えます。

「木枯らし第1号」の登場はもっと早いです。

1955年10月9日付朝日新聞に次のようにあります。

……この寒さは全国的なもので,八日は九州で三,四度,北海道で五度,中部山岳地帯で五度,中国近畿地方では六,七度も平年より低かった。西高東低という冬型の気圧配置だそうで,七日晩から全国各地に吹き出した北風は冷たい季節風のはしり。つまりは〝木枯らし第一号〟だったわけで,この吹きはじめも平年より一月近く早いと中央気象台ではいっている。

同じ日の天気について,「天文と気象」の「10月の天気図」では8日の日記に次のようにあります。

北日本に低気圧が発達,大陸高気圧が押し出してきて冬の季節風型があらわれはじめた. 武蔵野にも〝木枯らし〟第1号がふき初めたが,これは平年より1ヶ月も早い. 各地に初霜,初雪しきり.

ただし,10月8日は現在の基準では“フライング”であるため,木枯らし1号とは認定されていません。この年の木枯らし1号の発現日は10月30日となっています。

「天気図日記」で「木枯らし2号」が使われた例がひとつだけあります。1966年10月29日に「きょうは関東にも木枯らし2号が吹くとみられたが云々」とあります。ただ,まだ木枯らし1号も吹いていない時期だけに(この年の発現日は11月15日),意味不明です。

東京の木枯らし1号の最早日は10月13日(1988年),2番目は10月17日(1957年),3番目は10月18日で,1986年と2000年に観測されています。(気象庁天気相談所調べ)

月曜ゴールデン「漂泊の楽人」,やっぱりでしたねえ……(-_-;)

「漂泊の楽人」ドラマ化で“予言”したとおり,おかしな設定になっていました。

まず,月潟村ってもうありませんよ。2005年3月に新潟市に編入されています。

それと,やはり“20年の壁”は大きかったです。

角兵衛獅子は昭和のはじめのころまでにはなくなっていたそうですから,漆原睦子さんが小学生だったのは今から少なくても60数年以上前になります。かりに65年とすると,現在75歳くらい。漆原肇子さんはおそらく25歳よりは若そうですから,睦子さんは50歳以上で肇子さんを産んだことになります。不可能かどうかは知りませんが,かなり不自然であることは確かです。

それにしても,どうしてこんなに古い作品を年数の経過を無視した形でドラマ化するんでしょうね。しかももう2回もドラマ化されている作品を。

バ亀田のハラキリマダデスカ?  

今日10月10日は1964年に東京五輪の開会式が行なわれた日です。どういう経緯で開会式が10月10日に決定したのかは10月10日は晴れの特異日ではなかったを参照してください。

東京五輪の期間中の天気について,気象庁の公式文書である「気象要覧」の「気候状態」に次のようにあります。

・・・・・・
 この月は前月からの聖火リレーに続き,本格的東京オリンピック開幕に国民の眼が向けられ,期間中の天気にも関心がもたれた。さいわい秋の長雨も,台風による暴風雨もなくやや低温気味に経過したが,全国的には平年並の気候であった。
・・・・・・

 7日も北海道を除いてぐずついた空模様が続き,日中も気温は上がらず,オリンピックの聖火が東京入りしたこの日の天気は,朝は小雨,日中は曇りで夕方からまた雨が降りだし,8日は全国的に雨模様のぐずついた天気となった。

 10日から12日にかけては大きな移動性高気圧がゆっくり日本全体をおおいながら東進したため全国的に良い天気に恵まれた。特に10日のオリンピック開会式当日は,前日までぐずついていた天気も一挙に快晴に逆転し,奇跡的ともいわれるほどの最上の五輪日和になった。しかし移動性高気圧は北偏していたため日中でも気温は上がらず,平年より1.2℃も低かった。
・・・・・・

……しかし21日には日本海に弱い低気圧が発生したが,大陸と太平洋側の高気圧の勢力がたがいに強く,低気圧の移動がおそかったため,日本は気圧の谷の中に23日までの3日間入っていた。このため全国的に天気はぐずつき,オリンピックの華といわれるマラソンが行なわれた21日の東京の天気は,朝のうちは雨がパラついていたが,昼ころ温暖前線が北上し,マラソンが始まった午後の天気は曇りで,平均風速1.0m/s,気温18.7℃,湿度81%と湿度はやや多かったが,マラソンには絶好のレース日和であった。
・・・・・・

なにもここまで書かなくても……って気がしますが(とくにマラソンの日の天気など),それだけ東京五輪はいろんな意味で大きなイベントだったということなのでしょう。

ただ,わざわざ聖火リレーにまで言及しておきながら,閉会式にひとことも触れていないのは不思議です。

1983年10月9日,倉敷のアイビースクエアで,東京から来た若いOLが毒殺されました。(内田康夫『倉敷殺人事件』)

1998年10月8日,暴露雑誌「裏の真相」の出版社の社長・風間了の変死体が沖縄・知念村の斎場御嶽《せーふぁうたき》で発見されました。(内田康夫『ユタが愛した探偵』)

今日は体育の日。今はさまようよろいと化していますが,もともとは10月10日で,1964年の東京五輪の開会式を記念した日だということも,もう忘れられつつあるかもしれません。

東京五輪の開会式が10月10日に決まった理由については,10月10日が晴れの特異日だからとする俗説がいまだにはびこっていますが,ちょっと調べるだけで面白いことがわかります。開会式が10月10日になったのは,きわめて簡単にいうと,単に9日の次の日だったから,あるいは11日の前の日だったからです(笑)

まず,1961年6月のアテネでのIOC総会で,東京五輪の日程は大枠として10/11開会式,10/12休み,10/13競技開始と決まります。開会式の次の日に休みを入れたのは,開会式は疲れるから1日開けて欲しいという要望が一部からあったかららしいです。

そして,1962年5月,日本の東京オリンピック組織委員会は具体的な競技の日程などと照らし合わせて,日程を10/09開会式,10/10休み,10/11競技開始と決定し,6月にモスクワで開かれるIOC総会に提出します。

このように,10月10日開会式という案ははじめは存在しなかったのです。したがって,晴れの特異日だから10月10日になったというのはまったくのデタラメであることがわかります。

東京五輪の日程は1962年6月のモスクワでのIOC総会で最終的に決まるのですが,そのとき10日の休みはやっぱり要らないという話になり,10日が開会式と決定したのです。

ちなみに,東京五輪の開催が10月に決まるまではすったもんだの連続で,なかったのは9月案くらいで,5月案,6月案,7月案,8月案が出ては消え出ては消えしてなかなか面白いです。なんと,一番最初の案(東京都の案)は7月下旬~8月上旬開催でした。いっとき,6/14からの15日間に決まりかけたこともあります。

なお,最近では10月10日は晴れることが多いのは事実ですが(ただし,アンハッピーマンデー化で体育の日の座を奪われてからはスネたのか,晴れが少なくなっています),東京五輪が計画された1960年代前半まではそれほど晴れは多くはありませんでした。

10月7日,都電面影橋停留所付近で女性の通り魔によると思われる他殺死体が発見されました。(内田康夫『琥珀の道殺人事件』)

また,夜,新宿の淀橋公園近くの路上で初老の男が刺殺されました。(内田康夫『倉敷殺人事件』)

1996年10月6日早朝,栃木県足尾町の通称「餅ヶ瀬渓谷」で,グリーン製薬のプロパー田口信雄の他殺死体が発見されました。(内田康夫『遺骨』)

10月6日,長野県の松川ダムで釣り客がバラバラ死体を発見しました。(内田康夫『死者の木霊』)

10月5日,新宿の京西ホテルで陶芸研究家の刺殺死体が発見されました。その死体には黄色い砂がかけられていました。(内田康夫『佐用姫伝説殺人事件』)

今日は8月に行なわれた第28回気象予報士試験の合格発表の日です。番号がWeb上に発表されるほか,配達日指定の圧着式ハガキで受験者に通知されます。

σ(^^;)が受けたころは合格者には大きな封筒が,不合格者には小さな封筒が届いたそうですが,σ(^^;)には大きな封筒しか届いたことがないので,詳細は知りません。

ところで,去年の合格発表では次のようなできごとが。

 気象予報士試験を実施している気象業務支援センターは5日、試験結果の通知はがきが、郵政公社のミスによって発表日の6日より早く受験者に届いていたと発表した。
 同センターによると、8月27日に行われた気象予報士試験の受験者5074人に対し、配達日を10月6日に指定した合否の通知はがきを2日夜、委託していた印刷業者が羽村郵便局(東京都羽村市)に持ち込んだが、郵便局側が誤って一般郵便物として扱い、各地の郵便局に発送したことが原因とみられる。
 通知はがきを4日に受け取った受験者からの抗議や問い合わせが同センターにあり、発覚した。
(毎日新聞) - 10月5日12時29分更新

問い合わせはともかく,早くわかったのに抗議するというのはねえ……? 心の準備ができてなかった?

2001年10月4日,外房の大原沖の海で,トップ屋・平子裕馬の水死体が発見されました。(内田康夫『贄門島』)

1961年の台風15号は8月15日21時,硫黄島の西方海上で発生しました。少し発達しながら北~北西に進み,宮崎上陸は時間の問題と思われましたが,宮崎市に接近するころから急速に衰え,上陸する前に弱い熱帯低気圧(死語)になりました。

最近ではまずお目にかかれない新聞記事。

ごく弱い台風とはいえ,まともに上陸すれば油断はできぬと警戒していた気象庁もいささか拍子抜けの形だった。(1961.08.18 朝日朝刊)

最近はほとんどワンパターンの記事しか見ないだけに,新鮮に映ります。

台風15号Krosaが発生しました。Krosaはカンボジアの命名で“鶴”だそうです。

というわけで歴代の台風15号を見ていきましょう。題して台風15号列伝台風14号列伝とは違って,1回につき1個の台風を扱っていきます。まがりなりにでも“完結”するまでに何年かかるんでしょうねえ……?(笑)

ちなみに,台風15号といえばなんといっても洞爺丸台風(1954年)と伊勢湾台風(1959年)ですが,別に「本紀」として扱います。いつになるかわかりませんが。

そういうことで,列伝のトップバッターは1956年の15号。沖縄方面から日本列島の太平洋岸をなぞるように北上してきました。

高知・和歌山などに大雨を降らせたほかは,見かけの割には被害は少なかったのですが,9月27日07時20分ごろ,関西線の下り亀山発湊町行きの旅客列車が三重県鈴鹿郡関町付近を進行中,土砂崩れに巻き込まれて1両が10メートル下の加太川に転落,多く(10数人?)の死者を出しました。

この転落事故についてはざっと調べた程度では確かな資料が見つからず,死者の正確な数がわかりません。当時の新聞には「十数人が絶望」「助かったのは三人」とあります。直後(10月15日)に起こった参宮線六軒駅列車衝突事故のほうが大きかったこともあり,この転落事故は忘れられているようです。なお,参宮線六軒駅列車衝突事故については,Wikipediaをご覧ください。

台風15号は9月27日15時ごろ中心が東京付近を通過しましたが,風速は14m/s,最大瞬間風速も25.5m/s程度でした。

10月1日,水内ダムで信州毎朝新聞編集局次長の死体が発見されました。(内田康夫『「信濃の国」殺人事件』)

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