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お天気,暦,競馬などに関するメモです。以前発行していたメルマガ「能天気Express」のブログ版みたいなものです。

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お知らせ
2008年6月2日以前の記事は他のブログからインポートしたため,画像へのリンクが切れています。画像の元データはどこかにあるはずですが,どれがどの画像だったのかわからなくなっているし,新たにサイズなどを変換するのが面倒なため,問い合わせをいただいても画像を復活させることはしません。まあ,大して貴重な画像があるわけではないですから(笑)

白虎隊を知っている人ってどのくらいいるのでしょうか。福島県生まれ(会津生まれではありませんが) の私は子どものころから不正確ながらも知っていましたけれど,全国的な知名度はどの程度なのでしょうか。その昔年末ドラマにもなりましたが, 当時若者だった白虎隊士も,いまではいいオッサンになっています(笑)

白虎隊を『大辞林』で引くと,次のように書いてあります。(ちなみに『広辞苑』に書いてあるのはかなりデタラメ)

1868年,維新政府軍の来襲を迎えた会津藩が,兵制改革の一環として一六,七歳の藩士の子弟をもって編成した少年隊。 飯盛山における隊士二〇名の自刃は,会津藩の悲劇を象徴する事件となった。

つけ加えると,20名のうち1名は命を取りとめました。また,このときの20名が白虎隊のすべてではなく, 彼らは白虎隊の中の士中二番隊(隊士数37名)に属していました。

さて,前置きが長くなりましたが,新政府軍を迎え撃つため白虎士中二番隊が出陣したのは慶応四年八月二十二日 (現在の暦で1868年10月7日)午後のことでした。戦闘は膠着状態のまま夜になり, 深夜になって白虎士中二番隊は新政府軍を挟撃しようと移動をはじめましたが, このときに食料を調達しにいった隊長の日向内記とはぐれてしまい,その後のいきさつには不明な点があるものの, 要するに城を枕に討ち死にしようと鶴ヶ城へ帰城しようとします。

ぬかるみや冷たい水の流れる弁天洞など困難な行軍の末に城から2.8kmほどの飯盛山に辿りついたのは, 翌二十三日午後2時ごろのことでした。そこから城を眺めると,城下からは紅蓮の炎が上がり,城は黒煙に包まれているように見えました。

南鶴ヶ城を望めば砲煙あがる
痛哭涙をのんで且彷徨

20人はもはやこれまでと自分で喉を突いたり互いに刺し違えたりして自刃しました。

宗社亡びぬ我が事おわる
十有九士屠腹して斃る

その中の1人が奇跡的に命を取りとめたことは前に書いたとおりです。

しかし,名城鶴ヶ城はこのときはまだびくともしていませんでした。このあと1か月もちこたえます。ただ, 城下に火の手が上がっていたのは事実で,彼らには城がこの炎に包まれているように見えたようです。

一方,ちょうどこのころ,台風が太平洋岸を北上中でした。十九日に仙台に向けて品川を出港した榎本武揚の艦隊が, 二十一日の夜半から暴風雨に遭い,大きな損害を出しています。

二十二日の会津地方は台風の少なくとも強風域にはいっていたようです。 白虎士中二番隊は空腹と過度の緊張に加え激しい風雨の中での行動を強いられることになり, 飯盛山に辿りついたときには疲労も極限に達していたことでしょう。

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